« 2007年03月 | メイン | 2007年09月 »

2007年05月 アーカイブ

2007年05月20日

家の間に見える夕日から考えたこと

RIMG0213.jpg

「見てみて!」“あっち”を指す同居人の指の方向に目を向けると、玄関にある引き戸のガラスの上の方が、うっすらと紅い色に染まっていた。ドアを引くと、隣家の家と家との間の空が、とても美しい色をしていた。ピンクからオレンジになって、闇へと姿を変えていく、夕闇の色。私は昨日まで同居人を連れて帰っていた、実家のある町の、夕暮れの景色を思い出した。

同居人と実家に帰るのは初めてだった。自分が生まれ育った町を、できるだけ多く見せたくて、ぐるぐる、たくさん歩きまわった。うちの車が故障しているので、せっせと、全部歩いてだ。近いと思っていた距離が思いのほか遠かったり、「あ、あそこも教えたい」と遠回りをしたり。一つひとつの場所が、自然と少し希薄になった。そして、案内したくても、もう既にそこにはないものも、たくさんあった。気に入っていた、教会の鐘の音を、聞かせてあげられなかった。自慢の弘前公園の桜の花は、まだ開花していなかった。気持ちの良い川べりの道を、自転車で駆け下りることもできなかった。大学の見事な南天の木は切り倒され、そして酒造会社の煉瓦造の塀沿いに見る、夕暮れの美しい空の色や、私の部屋から見る夕日の感傷的な光景も見せることができなかった。

ある場所にいて、その土地の色々な良さを味わうには、数日なんかじゃとても無理だ。字面にすると当たり前すぎることだけど、そのことを強く噛み締めた。私があの町で感じたことを同居人に伝えるには、同居人とともに、私が過ごしたのと同じくらいの時間をあの町で過ごさなければならないのかもしれない。

そのことは今、私が同居人とつくり上げている記憶にも言えて。私と同居人が毎朝散歩をしているお寺の、日々移り変わっていく緑の濃さのわずかな違いを確認したり、鳥のさえずりを聞きながら乏しい知識で名前を当てっこしたり、いつも道すがら会う犬がこちらを向いて吠え立てる(もちろん喜んでいる、のだと思っている)のに歓喜したり。そういうことを、実家にいる母と味わうことは、やっぱり難しいのである。

記憶を持ちうる「私」はただ一人しかいない。私が誰かと記憶を共有するには、私が共にいる人とでなければならない。私と同じ場所にいる人でなければならない。その場所は、ひとつしか持つことはできない。たぶん、基本的には。

もう少し、伝えたい。私が伝えたい景色や、そこで感じることも伝えられればよいのに。もどかしく、くやしく、やりきれない気持ち。そんな気持ちにもなりきれないくらいの感覚が一瞬のうちに私をめぐった。それは、同居人に対しても、そして母に対してもベクトルが向いていた。

「きれいだねえ」
「ねえ」

空の色はきれいなのである。私の語彙ではそれしか出ない。実際に口から出て音になる、言葉とはちょっと違う。

引き戸を閉めて、手を止めていた夕食の準備を再開する。同居人は流しに向かって野菜を刻む。私はテーブルの上を片付ける。ぼんやり、茶碗を並べながら考えたこと、それがこんなことだ。

齋藤 里紗