2008年04月14日

デジタルで汚す

いつのまにか4月になってしまった。先々月はプレゼントで写真集をもらい、ちょうどそれが木村伊兵衛賞をとってしまった。志賀理江子の『Lilly』だ。この写真は本屋に置かれ始めた時から気になっていたが、まさかいきなり賞をとるとは思わなかった。が、才能としては図抜けている。デジタル写真の可能性にようやくポジティヴな評価を与えることが出来る、と思わせるような鮮烈な才能だ。

もはや時流の新しい・古いといった場当たり的な価値を超え、あらゆる要素を異種配合していくことにしかクリエイティブというものは宿らない、ということを実感させてくれる写真家だと思う。写真的な即興性をもったイメージをセレクトし、そのうえ様々なテクスチャーや光の素材を組み込み、編集し、加工する。という一連の作業に必然性が感じられ、ブレがない。新しい技術を興味本位で取り入れる。という地点から最も遠い場所で写真が創られている。デジタル写真が新しいフェーズの中にあることを実感させる。友人が言っていたが、「デジタルで汚す」という表現が最も近いように思える。

『Lily』は写真家がドイツに留学していた時代の作品を編集した本になっている。同じアパートに住む人々を写真に撮り、その後彼女の手による“不思議な”加工を施している。同じアパートに住むいわゆる普通の人々の指先から金色の光が宿ったり、体の中にブラックホールが生まれたり、宇宙の中をフラフープしたり・・・と言葉にすると全く訳が分からない(笑)。が、その全く見たことがない、どのような形容詞をつければいいのか途方にくれるようなイメージがある。まだ写真には力があるんだ、と実感する。

新しさといのはどこからやってくるのか。あるいは、表現の強さというのは、自分たちのどこに存在するのか。この『Lilly』という作品はそんな問いを新鮮なものにする。クリエイティヴというものに真摯に人々を向き合わせる力がある。メディアや技術が、作り手のソウルや感性やモチベーションや思想と奇跡的なシンクロを成し遂げる。『Lily』はその最良のサンプルと言えるだろう。逆に言えば、我々のほとんどは、まだまだ技術やメディアの力に負けている(コジマ)。

2008年03月22日

ギャル曽根以前/ギャル曽根以降

僕は最近どうしても彼女のことについてばかり考えてしまう。ああ、かわいい。超かわいい。見ていて癒される。と、いつもTVで彼女が映っていると思ってしまう。それは誰かというとギャル曽根のことだ。ギャル曽根はいい。今一番来ている。だってあれだけバカスカ食いもん喰らってもかわいいんだぜ?これは奇跡だ。ギャル曽根は新しい女性タレントのモデルを体現している。彼女の出現でパラダイムシフトが起こった。そう、ギャル曽根以前とギャル曽根以降とで、完全に時代が変わってしまった。

彼女が起こしたイノベーションをここで見てみよう。まず、大食いなのに痩せている。で、若い。ギャルである。そして何よりも彼女がわんさか食べている時にカメラがよった時の表情。わざと顎を少し上に向かせ、目を閉じ、恍惚とした表情をカメラに向ける。これは彼女のテレビ用の独特のフォームと言っていい。モノを食べている時、いかにかわいく見せるか?そういった日々のトレーニングの形跡が見てとれる彼女のフォームは、見ていてこちらも思わず恍惚としてしまう。普通だったらたくさん食べるということは、外見的にも見苦しく、げんなりするものだが、決して急がないで自分のペースを保ちながら飛び切り美味しそうに食べる彼女の表情は、神々しくさえある。中山秀征のあのうそ臭さにまみれた表情とは雲泥の差。いわゆる「食い芸」で、彼女は芸能界の勢力地図を塗り替え、今、燦然と輝いている。あー、まぶし過ぎるぜ。

そんな「たくさん食う魅力的な女」というのは、もしかしたら普遍的な力を持つキャラクターなのかもしれない。かつて村上春樹は『世界の終わり/ハードボイルドワンダーランド』で、やたら食欲旺盛なセクシーな女の子を登場させていた(そしてこのキャラがオールドタイプだったのは、この女の人は若干太っていたのだ!村上春樹はギャル曽根の出現を予見出来なかった!)。ある意味すごく戦略的なキャラクターだ。

そして更に戦略的な実写版のキャラクターが登場した。それはテレ朝の深夜に放送されていた『未来講師めぐる』というドラマだ。主演は深田恭子で、彼女がベーグルとかドーナツとかホットドッグとか食べて、あ~お腹いっぱい、となるととたんに目の前の人物の20年後が見えてしまう。満腹になると彼女の中にある超能力が発動する、という設定。これは明らかにギャル曽根以降な、たくさん食べる普通の体型の女の子が魅力的で、なおかつ超能力者である、というラーメン屋で例えればラーメン単体で馬鹿旨いのに更に超高級食材のトッピングを「全部乗せ」にした感じだ。そういった意味ではこのドラマの脚本を書いた宮藤官九郎はやはり勘がいい。

で、その『未来講師めぐる』は先週終わってしまった(笑)。DVDがこれから出るので、まだ見ていない人はこのドラマの先進性(笑)を見るチャンスがある(コジマ)。

2008年03月15日

圧倒的な不条理

コーエン兄弟の映画『ノーカントリー』を試写会で観た。昔『バートンフィンク』を観たが、もはや完全に何の映画か忘れてしまった。けれどもこの『ノーカントリー』は強烈。とても面白かった。

最近映画では音が重要と言われている。この前のエスクァイアの特集でもそうだったし、蓮実センセイも常に音について語っている。この映画でも「見えるもの」よりも「見えないもの」のほうがとても気になる。この作品は“映画における音に関する文法集”とも言える。様々な技術の発達のお陰で、「見えてしまう」ということについてのリアルさが減退してしまっている状況下で、音のリアルさ、イマジネーション、すなわち「見えないもの」についての可能性を探ることが映画の延命につながる。それが最近の映画の一つの潮流と言ってもいい。

ということは誰もが指摘するだろうから、僕自身が面白いと思った点をいくつか。ハビエル・バルデム演じる殺人鬼役の男についてだ。彼はプロの殺し屋として大金を手に入れた男を追いかけ続けるわけだけど、ある種の“審判者”として描かれている。カミュで言えば『ペスト』のような、圧倒的な不条理とでも言える。当の本人さえ制御不能で、自分の意志を超えたところで動き、選ばれ、決定されていく。ヨーロッパ・アメリカ人は割りとこういうモチーフが好きだが、この映画についてはある種の超人的な摂理の、現代解釈といったものになっている。

でも、何と言うか、作品そのものが少し職人的な感触が強すぎないか…?とか同時に感じる。監督の中にあるもっとパーソナルなセンスというものが出ていてもいいのだが。いや、それは僕の単なる期待し過ぎなことなのかもしれないが。とにかくこの作品ではある種の達観や諦念を暗示するようなセリフが続き、思わせぶりな言葉が繰り返されていく。個人を超越した運命や定めをある種の知恵を持って受け止めるような素振りが、作品を透かして見えてくる。金を持って逃げる元ベトナム帰還兵、殺し屋、そして保安官。これらの男たちは皆どこか達観してしまっている。自分自身がもしかしたら次の1秒先で死ぬかもしれないことを、どこかで平然と受け入れることが出来ている。

その一方で、唯一、生々しく、前向きなセリフを語るのは女たちばかり。だから彼女たちがスクリーンに映ると思わず目が覚めた気分になる。より生々しく、予想外で、何かの感情の塊みたいなものが彼女たちによって突発的に現れる。そこがこの作品の魅力の一つでもある。受け入れることと反発すること。そういった引き裂かれ方も、もしかしたらクリシエ的なものなのかもしれない。でも、ペドロ・コスタも「映画はクリシエを恐れてはいけない」みたいなことも言っていたな。クリシエを恐れず、クリシエに突き進み、それを乗り越えようとすること。そういった逞しい意志というのは、この作品には十分あると思う(コジマ)。

2008年03月04日

私、今、眩暈したわ


ある日、それは突然やってくる。そしてそのことは自分にとっては無関係ではいられないものであり、むしろ致命的になるかもしれないもの。もしかしたら自分もこうなるかもしれない、という不安。決定的に変わってしまうもの。もはや過去の自分には戻れないこと。そういうものが、突然やってくる。

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先月、父親が倒れた。軽い脳梗塞だったが、60も過ぎるといつ何が起きてもおかしくないようなことでもあり、それは自分にとって少し目が覚める体験だった。最も身近な人間に忍び寄るもの。そして、いつかは自分にとっても忍び寄るであろうこと。

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人間の終わりというのは絶対的で、たった一つのものである。死というのは、ただただ圧倒的なもので、それについてどうこう言及することは難しい。ただし、その代わりといっては何だが、生きている時間の中で、僕らの存在というのは多面的であり、多様性を持ち、常に絶対的な最期を回避するような運動を続けている。変化は、必ず変化しないものを常に意識している。たった一つの終着点に向けて、僕らは変わり続ける。

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『わたしいまめまいしたわ』(東京国立近代美術館)は、アイデンティティーの変容や複数の私といったテーマよりも、僕にとっては生を持続させるための焦燥だったり、モチベートを生み出す運動そのものを感じた。複数性による開放感なんかじゃなく、もっと必死で、汗臭く、せかせかとして、変わり続けるもの。コンセプチュアルな理性を突き破るような衝動。言わば今の僕自身というのは、そういう気分なのだろう。

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展示の中で最も自分の気を引いたのは、高峰格の『God Bless America』。「ゴッド・ブレス・アメリカ」を歌う頭像のクレイ・アニメーションによって911以降のアメリカをアイロニカルに表現している、だって?僕はあんまりそういうものは感じなかった。確かにそういう風にはつくられているが、作者の高峰氏はそんなことは結局のところ、どうでもいいのではないだろうか。911をセンセーショナルなモチーフとして利用しただけのことで、結局のところ彼が表現したかったのは、粘土の馬鹿デカい頭のマヌケ面が不気味に動く有様と、その粘土をつくる若くてかわいい女の子の動き、なんだと思う。他のことはもはやどうでもいいに違いない。

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2人のカップルが真っ赤な部屋で目覚め、起き上がり、食事を取り、巨大な粘土の頭像をつくり、夜になると夕食をとり、眠り、セックスさえしてしまう。こんな一日が果てしなくせわしなく記録されている。ゆっくりとだが確実に変わっていくものをハイスピードで回転させると、そこにはマジックが生まれる。そんな早送りされているヴィデオのイメージを眺めていると、眩暈を感じてくる。しかも酷く心地よい眩暈を。

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別に意味なんかない。自分の中にある何かが反応して、動き出す。そんなオートマッテックな本能の再確認。私、今、眩暈したわ(コジマ)。

2008年02月25日

イメージの辺境に触れる

誰にしろ鞄にカメラを突っ込む時、それなりの目的や理由がプロ・アマ問わずに頭の片隅にはあるものだ。ある特定の光景が目の前に現れたら、時間を止め、半永久的に残したいと思わずにいられないもの。たぶんその気持ちの強さの度合いが、写真を作品たらしめるものなのだろう。そんな写真を撮るという行為は、とても私的で、密やかな冒険じみたプロジェクトでもあり、彼らが生きていくうえで必要なことなのだ。

僕はこのような写真的なプロジェクトは大好きだ(そしてこういった要素は写真のみならず、小説やルポルタージュといった表現の中にもある)。たぶん写真だと他人の気分や感覚がダイレクトに伝わるからだろう。とても生々しく、彼らの企み、冒険、眼差しの先にあるものに触れることが出来る。なるほど、そうやって彼らは自分のプロジェクトを立ち上げ、旅に向ったのか、と。写真を見ることは、“彼らなりの生”をつくりあげていく技術を学ぶことでもある。

なんていうことを、(もうとっくの昔に終わってしまったけど)ピーター・サザーランドの個展『DIRTLAND』を見に行ったときに感じた。めちゃくちゃな傑作、というわけではなかったが、そこには企みがあり、男子的ノリのプロジェクト感があり、そして冒険そのものだった。この個展のパンフレットから一部抜粋してみる。

「ある日、僕は、ナタンから「秘密の情報」を聞いた。それは、街の外れにある洞窟に住む、モスという男のことだった…(中略)僕は、ナタンに僕の写真のポートフォリオを見せ、「森に篭って生活する人」を被写体に、写真を撮りたいのだと伝えた」

「森に篭って生活する人」(笑)。案の定、そのモスっていうヤツは危ないパラノイア気味の男だった。そしてそれ以外にも鹿の死体に体を擦りつけまくった犬と遭遇したり、不法キャンプをしている人や、ホテルから食料をかっさらっているキャプ・マニアに遭遇しては、彼はマウンテンバイクで軽快に森の中を走りながら、そんな不思議な連中を撮り続けた。

しかしながら、ピーター・サザーランドの作品には不思議といわゆるビョーキな感じは微塵もなく、クールで、爽やかでさえある(いくらドギついオヤジが写っていても)。あくまでもカメラを手にした男子のドキドキ感が伝わってくる。彼の写真にはノリがあるのだ。スケートボーダーのような、軽やかなフィジカルが写真の中にある。そんなものが見ているとヒシヒシと伝わってきて、僕自身の体も自然と軽くなった。イメージの冒険、新鮮さ、不意を撃つようにやってくるもの。ピーター・サザーランドの写真に触れると、そういった秘密について、少しだけ敏感になれるような気がする(コジマ)。