若さという病について
一人のスケートボーダーの少年が公園に座り、おもむろにハンディカメラとピストルを取り出し、そして自分の横顔をハンディカメラで映しながら、ピストル自殺をする。そんな陰惨極まりないシーンでスタートするラリー・クラークの『ケン・パーク』をレンタルビデオ屋で借りた。
昨年の12月にワタリウム美術館に行って彼の個展『パンク・ピカソ』を観たんだけど、そのままの世界観が映画として成立して、彼が追いかけるモチーフについての情熱、というかオブセッション(?)を改めて感じた。写真、映画ともに、十代の少年少女達に焦点をあてて、彼らの年代特有の無垢さ、憂い、緊張感のある美しさ、そういうものを彼は一貫して追いかけている。当然、スケートボーダーの少年のポートレイトも個展には数多く存在し、彼が最高のスナップシューターであることが理解できるものだった。
個展で興味深かったのは、彼が丁寧にタブロイド誌のスクラップを集めていて、大抵それは十代の少年が犯した犯罪の記録だったり、アメリカ南部のホワイトトラッシュの家庭の問題についての記録であったりした。わざわざスクラップをつくる、ということはこの写真家は本当に自分のモチーフ、すなわち「若さ」、「思春期」というものに取り憑かれていて、そこから逃げることなく、自覚的に社会を見ている、ということなんだと感じた。
彼のモチーフは単なるセンセーショナリズム、ではない。『ケン・パーク』はまさしく彼の持っている様々なスクラップのなかにある物語を、ハーモニー・コリンが丁寧に掘り起こし、脚本化した、と言える。そして、僕らは若さというものに取り憑かれた文化の真っ只中いるんだ、ということをこの映画を通して実感するのだ。
タブロイド誌のスクラップ記事から再現されたものとは、歴史が崩壊した世界(郊外社会)における、空っぽな人々にまつわる、空っぽな物語だ。なすすべなく生きている人たちの、空虚であるが故の一瞬の美しさが、この映画のなかに存在する。青春ドラマにありがちな、「何かを乗り越える」ための葛藤はほとんどなく、ただただセックスと暴力のみがあって、登場人物たちは少年達がスケートボードで街を滑るみたいに、世界の表層を儚く滑りつづける。
とは言え、映画の中の過剰な性描写や暴力シーンを見ると、ラリー・クラークの追及する「リアルさ」について、ちょっと考えざるを得ない。こういった嘘を許さない、表現における潔癖症的な才能は、ラリー・クラークの大きな魅力の一つであると思うけど。この、「リアルさ」を愚直なまでに追い求めることこそが、「思春期」的な病理であって、この映画を求める全ての人が、未だこの中毒性の高い病理の真っ只中にいる、ということかもしれない(小島)。



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