普遍性と時代性のせめぎ合い、というのはどのジャンルにもあることで、それは当然、食、というジャンルにも存在する。『プロのためのフランス料理の歴史』(ジャン・ピエール・プーラン、エドモン・ネランク著)、という情熱的且つ素晴らしい横断的な視点をもった本によって、そういったことを再確認。めちゃくちゃ面白かった。以下、この本の超要点を超簡単に抜粋。
★政治と料理
「グランド・キュイジーヌ」(高級料理)は17、18世紀の中央集権的な貴族社会の反映だった。様々な食材を集約し、極限まで洗練させる錬金術的な料理や、主を中心とする、ヒエラルキー的構造をもつ皿の並べ方。それがフランス革命以降、そういったヒエラルキー的な構造が解体され、中央集権的な政治体系から分散型の政治体系への変化に伴い、「グランド・キュイジーヌ」に対する様々な解釈が与えられることになる。そしてローカリズムの強い、地方の素材を使用する「ヌーヴェル・キュイジーヌ」が、1970年代に生まれる。懐古主義的美食趣味は崩壊し、社会のスピードに合わせ、料理も簡略化される。
★言語ゲームとしての料理
調理場という「無意識」からつくりだされる料理に対し、名付けることによって、それは「意識化され」た産物となる。王、貴族の名前、階級の名称、地名といったものが料理の名としてつけられるのが伝統であったが、料理が多種多様化していくうちに、名付けるものと名付けられるものとの距離は大きくなり、料理はその神話性を失っていく。料理名は料理の素材、要素を羅列していくものに変化し、次第には冗長に、言語ゲーム的なものに変化していく。料理は、実態より言葉によって存在するものとなる。例えば、「舌平目のランプ肉」、「ホロホロ鳥の胸肉の薄切り、クレソンの花びらのコンポーネント添え」、というように。
★肉体と料理
かつては肥満は富の象徴だった。が、「ヌーヴェル・キュイジーヌ」以降、新たな肉体信仰やほっそりとした身体が美しいとされたことに応えて、料理は「軽さ」を求めることになる。ダイエットと美食の融合。また、デカルト哲学以降の西洋の伝統は、肉体における最も繊細な感覚から、最も粗野な感覚をヒエラルキーとしてランクづけしていたが、ヌーヴェル・キュイジーヌを境に、低いランクに位置した味覚が再評価されることとなった。肉体の再発見、人間の再統合、というのが目指される。
★「ヌーヴェル・キュイジーヌ」
1974年代以降の新しい食文化の潮流となった、「ヌーヴェル・キュイジーヌ」の特徴とは
1.安全な食品を使った食事制限
2.ほっそりとした理想的な体型
3.自然との調和の願望
4.既存の社会秩序の拒絶
古典料理は数種の味をおたがい浸透させ、そして統合することを目指した。それに対し、ヌーヴェル・キュイジーヌは風味の並置であり、日本料理の「会席料理」からの影響が顕著に見えるものである。味の集中管理から分散化、という流れ。食材主義、地元主義。
★ガストロ=アノミー
1990年代以降、ヌーヴェル・キュイジーヌの終焉に伴い、食文化の無秩序化が生まれる。「この無秩序(アノミー)の中で、抑圧は多様化し矛盾をはらみながら増殖し、現代の食べ手に働きかける。抑圧とは、様々な宣伝、提案、対処法、そしてことに増え続ける医学的憧憬のことである」。消費行動の変化、食品への新しい科学的技術の適用、経済の国際化、これら全てが、食にたいする不安を増大させている。食にたいするアイデンティティーの再獲得、食のコミュニティの再構築、の必要性。
★「デキュスタション」
ヌーヴェル・キュイジーヌの流れの一つで、小さなポーションで異なる7,8皿の料理を続けて出す。料理人の最良の部分のサンプリングであり、伝統的料理の再編集、ということでもある。また、現在のスペイン人のフェラン・アドリエを筆頭とする、実験的料理はこの流れを引き継ぐものである。「分子美食学」とも呼ばれるこの流れは、科学と物理学の料理への応用であり、新しい味覚を文字通り科学的に「発明」する。味覚主義、テクスチャー主義的で、多種類の味を構成する食材を、注射器で味わわせたり、中国スプーンで味和せたりする。味覚の完全なる「食べるという行為」からの分離、と言える。
この本を読んでいて、食にたいする創造性の視点というのが、他のジャンル、映画だったり、小説だったり、そういったものと全く違わない、というのが最大の印象。料理においても、ヌーヴェル・ヴァーグ、ヌォーヴォー・ロマンと同様に、戦後のフランスの現代思想の影響を本当に強く受けている、ということがわかる。構造主義的なアプローチから、より分散型で、よりローカル色の強いものへと、必然的に料理における創造性がシフトしている。今、フランス料理は完全に終わった、と言われ、それに対してスペインのバルセロナの実験的な料理が注目されている。が、たぶんまた食における歴史の再構築が行われ、再び新しいスタンダードが生まれると思うけど、それはパリでもなく、バルセロナでもない、また違う国から生まれるんじゃないか。完全に食環境がグローバル化してしまった今、食における異文化の「クロスフュージョン」というのはこれからも無数に生まれるんじゃないかと、この本を読んで感じた(小島)。

