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2005年10月 アーカイブ

2005年10月20日

ジャムセッションとカットアップ

オン・ザ・コーナー(紙ジャケット仕様)

目覚めました。何に?そう、JAZZに。

僕自身のiPodのアーカイヴに今、急激に増殖しているのはマイルズ・デイヴィスを中心としたJAZZだったりします。面白い。彼の、すごく熱しやすく冷めやすい。と思わせるくらいの勢いで常に挑戦していく新しい音楽的スタイルが。そして、その音楽的要素が90年代以降のクラブミュージックに通じる要素までも併せ持つ部分も、とても面白い。

彼が登場した1940年代のシーンはチャーリー・パーカーを中心とした技術主義の、超即興主義の時代だったんだけど、マイルスはフレーズ主義であり、バンドアンサンブルを重視したサウンドを指向していて、とても時代の必然的な流れのなかにいた人、と言えるんだと思う。ビバッブという感情の濃縮の表現から、クールジャズという構造主義的な音のアプローチへの変革。というマイルスのイノヴェーションというのが始まるんだけど、それは彼の特質をすごく現しているんじゃないかな。

創造性の質というものは当然時代によって変わっていくもので、彼はまさしくその質の変遷に敏感だった。即興、技術という、超プレイヤ−志向から、より編集的、ポストプロダクション的なものを追求していったところがすごく現代的だったと思う。特に60年代以降の『イン・ア・サイレント・ウェイ』から顕著になる、プロデューサーのテオ・マセロによるジャムセッションを録音したテープをハサミでチョキチョキやる「カットアップ」の手法は、ものすごくJAZZから遠くて、限りなくテクノ的、ヒップホップ的な欲望だ。そういう、ジャムセッションとカットアップとのコンビネーションを経て出来上がったのが『ビッチェズ・ブリュウ』であり、『オン・ザ・コーナー』になる。ちなみに自分は『ゲット・アップ・ウィズ・イット』が今一番気に入っているかな。

それと彼の自叙伝も平行して読んでいて、これまた面白い。音楽的にはすごく斬新な革新主義者なんだけど、性格的・体質的にはすごく保守的で人間臭い。こういう部分が、彼のバンドをディレクションしていくうえでの必要な資質だったと言えるかもしれない、と感じた(小島)。

2005年10月22日

料理における思考のフレーム

辻静雄コレクション〈1〉フランス料理の手帖・舌の世界史

辻静雄の著作『辻静雄コレクション』を読んでいる。今の辻料理師専門学校の創設者であり、日本におけるフランス料理の最大の伝道者、とも言える偉人。もともとは浅草の菓子職人の息子で、新聞記者を経て料理の世界に入った変わり種の人で、そこから何かに取り憑かれたようにフランス料理の研究にのめりこんでいく。『辻静雄コレクション』は彼のこのフランス料理への情熱、探求心が詰まっていて、本当に素晴らしい。

料理の世界というのは、十代の半ばから厨房に入り、修業をスタートさせる、というのが常識と言えるが、辻静雄の場合はそれに比べると遅い、二十代であり、当時は風当たりもきつかったと言う。しかしながら、彼は自分自身のビジョン、批評性、情熱などをもってして、これを乗り越える。特に生粋の料理人というよりはジャーナリスト的体質を経た、料理の技術、というよりは「舌の記憶」が彼の武器だった。料理の味、作り方、コンセプト、思想、歴史、というものを掘り起こし、書き上げることによってある種の「料理における思考のフレーム」というものを築き上げた人だと思う。

戦後の日本にはフレンチ、イタリアンといったヨーロッパの料理に対しては、かなり大雑把な「洋食」というフィルターが存在して、いわゆる「本物」ではなかった。それは例えば、「歌謡曲・邦楽」というフィルターと常に闘っていた日本のミュージシャンにとっても共通する姿勢だった、と言えるかもしれない。音楽シーンにおいては日本は90年代、渋谷系音楽を中心とする「歌謡曲・邦楽」の解体こそが表現に向かう大きなモチベーションの一つだった、と思えるが、こういったモチベーションは、当時の日本の食文化にも当てはまった。日本の料理人、特にフレンチやイタリアンにおける彼らは、「洋食」をいかに越えるのか。というのが一番大きな命題だったと思う。

そして辻静雄さんの場合においても、戦後の日本における「洋食」というフィルターを越えるべく、フレンチという文化を日本にいかに正確に伝えることが一番のミッションだったと思う。ボキューズ、トロワグロ兄弟、アラン・シャペル、等の天才達を通し、フランス料理の構造をいかにうまく日本語に変換させることが可能か。特にフランス料理の歴史を理解するための文献を参照する努力はすさまじい。もともと新聞記者だけあり、文献をいくつも読み漁り、歴史主義的な考察で、非常にわかりやすくフランス文化を伝えている。そしてこういった辻世代の料理人がコート・ドールの斎須さんだったり、北島亭の北島さんだったり、ル・マノアール・ダスティンの五十嵐さんだったりする。彼らは日本がフレンチ未開の時代にフランスに渡り、本当に一からフレンチを勉強した世代でもある。彼らの料理は非洋食的な、フレンチであることのこだわりがある。いわゆる、ヨーロッパ文化にたいするコンプレックス、というか。あるいは、いかにヨーロッパを越えるか、という意識というか。彼らは、日本料理にはない、自然に存在しない味の追及(特に何時間も複数の素材を煮詰めてつくるソースに代表されるような)というものに、全力をあげて取り組んだ。

しかしながら彼ら以降の世代の料理人というのは変化していくんじゃないか、と感じる。かつては「洋食」に向けたアイデンティティーとしてのフレンチ、だった。が、今はフレンチを日本でつくるということはどういうことなのか、というアイデンティティーに完全にシフトしていると思う。ある評論家が「フレンチは前菜、メイン、というコースの、みんなでがやがや料理を取り分けられない超個人主義的な構造が、日本人に絶望的なまでに受け入れられない」というコメントが印象深い。ここで面白いなぁ、と思ったのが、二世代で料理屋を経営していて、その店のシェフがフレンチを修行しながら、親が経営していた洋食屋を引き継ぐ、というお店が最近増えているということだ。息子の世代というのはフレンチにも洋食にも何のコンプレックスもない、そういうフラットな世代で、例えば京橋にある「レストラン サカキ」もそうなのだが、昼は洋食が出て、ディナーはフレンチのコースを出す。あるいはメニューにコース料理とハヤシライスが混在するという、ハイブリッドな仕掛けになっている。こういうのは少し前の時代だったらナシだったんじゃないか、と思う。いわゆる「正統派フレンチ」というのが、料理人のプライドだった時代は。

とは言え、もはや時代は当たり前に「フュージョン・キュイジーヌ」だったりするわけで(批判も多く、実際自分も食べたいとは思わないけど)、こういった流れは僕らユーザにとって、悪くないことだと思う。フランス料理のおける時代感覚というのは、絶えずこれからも更新され続ける、に違いない(小島)。

2005年10月24日

再生される世界のオリジナル

取り替え子(チェンジリング)

一つの傷を通して生まれる感情、感覚、思考。それは時として自分自身のなかにある何かを、更新させてしまう。最もその人にとって決定的であったものが、ある契機を通して露になってしまう、という瞬間。そういう瞬間を、誰しも必ず体験をせざるを得ないときがあり、それはある種の感情のフレームとして人々の間で共有され、反復され、そして複製されることになる。

僕は大江健三郎『取り替え子(チェンジリング)』を読んで、そういうことを考える。この作品においても、作家の本質を集約させるテーマというのが、親友である伊丹十三の死を契機に露になったと言える。大江健三郎は愛媛の松山の高校で伊丹十三と出会い、彼の妹と結婚さえした仲であった。物語は、自殺した吾良(伊丹役)が遺品として主人公・古義人(大江役)に残したカセットテープを通し、古義人が吾良と会話をする、というシーンから始まる。テープの向こう側にいる吾良の言葉、「・・・そういうことだ、おれは向こう側に移行する」、そういう、死者の言葉によって、この物語は展開していく。

何本ものカセットテープとともに「田亀」という旧式のカセットテープレコーダーも古義人に遺されていて、古義人はテープのなかの吾良の声を聞いては「田亀」の再生装置を止め、彼の問いに答える、ということを繰り返す。「田亀というマシーンがきみたちの間を媒介して、きみに吾良さんの魂を実在させている。それならば、死後の人間の魂は実在するか、という一般的な問いかけに還元できないかね」。そう、吾良は古義人に語りかけさえするのだ。

この、生きている者とそうでない者との間に生まれた、時間のずれを含んだ微妙な会話は、彼ら二人にとっての根源的な表現へのモチベーションとなった、ある一つの事件に向かっていく。二人の故郷において起きた「アレ」を巡り、吾良の遺した未発表作品のシナリオ、絵コンテ、あるいはベルリンでの講演活動、かつて主人公が書いた小説、そして神話、などが複雑に絡み合っていく。もう既に存在しないものがある機械によって再生され、そして今は亡き声に導かれながら、世界のオリジナルへと遡及していく。という展開が凄まじ過ぎる。

実際の作中人物、作中事件がリアルな世界と微妙にリンクしつつあり、常に物語はフィクションとノンフィクションとの間を中吊りにされる。しかし読み進んでいくなかで、そのフィクションとノンフィクションとの境界は消滅し、突き刺すような、生々しい作家の想いだけが感覚として僕らのなかに残る。とてもスリリングだ。ここにあるのは取り返しのつかない不在が生んだ、切実でなおかつヒリヒリする、一つの感情のフレームだと言える。そしてこの作品のなかでは大江文学のコアとなるような、性と政治にまつわる生々しい根源的な傷というものが呼び起こされている。だからこそ、「文学のための文学」を越えた、非常にエモーショナルな仕上がりになっている。素晴らしい傑作(小島)。