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再生される世界のオリジナル

取り替え子(チェンジリング)

一つの傷を通して生まれる感情、感覚、思考。それは時として自分自身のなかにある何かを、更新させてしまう。最もその人にとって決定的であったものが、ある契機を通して露になってしまう、という瞬間。そういう瞬間を、誰しも必ず体験をせざるを得ないときがあり、それはある種の感情のフレームとして人々の間で共有され、反復され、そして複製されることになる。

僕は大江健三郎『取り替え子(チェンジリング)』を読んで、そういうことを考える。この作品においても、作家の本質を集約させるテーマというのが、親友である伊丹十三の死を契機に露になったと言える。大江健三郎は愛媛の松山の高校で伊丹十三と出会い、彼の妹と結婚さえした仲であった。物語は、自殺した吾良(伊丹役)が遺品として主人公・古義人(大江役)に残したカセットテープを通し、古義人が吾良と会話をする、というシーンから始まる。テープの向こう側にいる吾良の言葉、「・・・そういうことだ、おれは向こう側に移行する」、そういう、死者の言葉によって、この物語は展開していく。

何本ものカセットテープとともに「田亀」という旧式のカセットテープレコーダーも古義人に遺されていて、古義人はテープのなかの吾良の声を聞いては「田亀」の再生装置を止め、彼の問いに答える、ということを繰り返す。「田亀というマシーンがきみたちの間を媒介して、きみに吾良さんの魂を実在させている。それならば、死後の人間の魂は実在するか、という一般的な問いかけに還元できないかね」。そう、吾良は古義人に語りかけさえするのだ。

この、生きている者とそうでない者との間に生まれた、時間のずれを含んだ微妙な会話は、彼ら二人にとっての根源的な表現へのモチベーションとなった、ある一つの事件に向かっていく。二人の故郷において起きた「アレ」を巡り、吾良の遺した未発表作品のシナリオ、絵コンテ、あるいはベルリンでの講演活動、かつて主人公が書いた小説、そして神話、などが複雑に絡み合っていく。もう既に存在しないものがある機械によって再生され、そして今は亡き声に導かれながら、世界のオリジナルへと遡及していく。という展開が凄まじ過ぎる。

実際の作中人物、作中事件がリアルな世界と微妙にリンクしつつあり、常に物語はフィクションとノンフィクションとの間を中吊りにされる。しかし読み進んでいくなかで、そのフィクションとノンフィクションとの境界は消滅し、突き刺すような、生々しい作家の想いだけが感覚として僕らのなかに残る。とてもスリリングだ。ここにあるのは取り返しのつかない不在が生んだ、切実でなおかつヒリヒリする、一つの感情のフレームだと言える。そしてこの作品のなかでは大江文学のコアとなるような、性と政治にまつわる生々しい根源的な傷というものが呼び起こされている。だからこそ、「文学のための文学」を越えた、非常にエモーショナルな仕上がりになっている。素晴らしい傑作(小島)。

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