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2005年11月 アーカイブ

2005年11月04日

ゴダールの神曲

アワーミュージック
この日の映画館には上映が始まる前から、正確に言えば予告編が始まって数秒経った後から、深い睡眠へと降りていった人物がいた。酷く不快なノイズ。いわゆるいびきってヤツが隣の席からラウダーにかき鳴らされていた。辺り構わず撒き散らす。という言葉がぴったりの、彼の寝息。メガネをかけ、ちょっと小太りで、すこし禿げてさえいる。まるでゴダールみたいな男。

この、今にも椅子からずれ落ちようとする勢いで爆睡している男は、これから始まるゴダール映画へ向けたプロローグとしての、ゴダール・タイム(要は、映画の最中に眠ってしまうこと)の暗示なのだろうか?この、『アワーミュージック』も例外なくそういった睡眠効果を併せ持つ映画なのだろうか?そんな僕の予感は隣から聞こえてくるノイズによって、更に強まった。

ゴダール映画の「公式」からすると、退屈から生まれる眼前の濃霧を乗り越えれば、そこには快楽がある。瞼が完全に閉じきる寸前の、あらゆる感覚が無防備に開かれた状態に辿り着けば、スクリーンに浮かび上がる些細な光やかすかな音が、より生々しく、よりクリアに感じ取ることが出来るようになる。それは世界が「分解」されていく瞬間だ。そういう体験としての「ゴダールシステム」を想定して、僕は『アワーミュージック』を観はじめた。しかしながら作品は僕の予感とはちょっと違った。いや、ほんのちょっとだけ、かもしれないが。

『アワーミュージック』は様々な戦争についてのドキュメンタリーや映画作品の引用から始まり、サラエヴォの美しい街並みへと眼差しは解放される。そして最後は祈りにも近い幻想についての、幻想的シーンへと辿り着く。暴力と、ストリートと、天国と。目を閉じると聴こえてくるような、「僕らの音楽」。映像と音と言葉の塊だけが身体のなかに深く沈みこんでいく。が、この映画における既存の「ゴダールシステム」、要は物語をカットアップ、あるいはコラージュによってズタズタにすること。ストーリーを「破壊」するのではなく、世界の内部から様々な事物を「分解」し、「音響的」な世界を展開すること。そういった原理は、スイスの自宅の庭園でゴダール自身が電話を受け取ったシーンから、そのモチベーションを完全に失う。それもあまりにも鮮やかな形で。

この映画を観て、僕は最近読んでいる大江健三郎についても思い出した。ちなみにゴダールも大江も同世代で、前者が73歳、後者が70歳になる。大江健三郎の作品は『憂顔の童子』を読んでいるのだけど、この作品においても『アワーミュージック』のゴダール同様に、作者本人が作品に登場してくる。このことは両者にとって初めてのことではないが、登場人物の作者のキャラクターにおけるたたずまいというか、人物の意志というか、そういうものに共通するものを感じてしまった。

彼らはともに映画(小説)のなかで映画(小説)を語り、世界の根源となる暴力を描き、次世代についてのことを考える。二人は物語と反・物語とで、まったく姿勢は反対方向を向いているが、表現における切実さというものに同じぐらいの強さを感じる。特に、自身の年齢を意識した、もう、それほどは長くない、という焦燥感と、それにあくまでも抗おうとする意志とを。自らをそのまま作品中に登場させて語らせなくてはいけない理由というのは、物語というフィルターをじれったく感じるほどの率直さに、僕はあるように思える。ある意味、素っ裸というか。だから作中の彼らはスイスの庭園でわざわざつまずいたり、あるいは愛媛の山奥の谷で絶叫しながら滑り落ちたりする(笑)。焦燥感、切実さ、滑稽なるもの。そして、そこから生まれる眼差しの優しさ。そういうものを、僕は考えたい。

彼らの表現は物語を乗り越えた、「モンタージュ的エッセイ」、とでも言えばいいものに向かっている。カット・アップやコラージュによって物語をズタズタにした後、それでもどうしようもなく彼自身のなかに残ったもの。あるいは、物語の構造や文学理論から零れ落ちずにないられなかったもの。そういう分解、あるいは構築しきれない不動なるものなるものがスクリーンや紙のうえに現れる瞬間。というのは、間違いないく最高なものだ。そういった彼らの世代における使命、祈り、意志というものをリアルタイムで僕らが受け止められるというのは、とても幸運なことだと思う(小島)。

2005年11月11日

監督業ほど素敵な職業はない

イビチャ・オシムの真実
イビチャ・オシム率いるジェフ千葉がナビスコ杯を優勝した。このチームがこういった躍進をするなんて、誰が3年前思ったのだろうか?やはりこの監督は偉大すぎる。にしても監督業、特にサッカーにおける彼らのある一定レベルの人々というのは、本当に神と悪魔の顔を併せ持ったようなカリスマが多い。

例えば今のユベントスのカペッロ。イブラヒモビッチみたいな超ド田舎者かつ問題児を軽く手なずける手腕は、本当に凄いと思う。ただの戦術オタクでは監督は決して務まらない。カペッロ、リッピ、モウリーニョ、ベンゲル・・・特に選手としての華々しい実績はなくとも、現場において選手とやり合うことが出来るリーダーとしての能力に、図抜けている。彼らは当たり前だが決してフィールドには立たない。が、存在として絶大なる影響力をチームに与え続ける。決まって選手達が言う。「監督は絶対だ。僕らは彼に従うまでさ」。監督とは、一流の心理学者のことを指すのかもしれない。選手に与える、絶対的な安心感と、絶対的な恐怖感。その両者を同時に、絶妙なバランスをもってして、自在に使い分ける心理学的才能。そういうものを、彼らは持ち合わせている。

実際プレーをしない、デザインをしない、楽器をふかない、タイプしない、カメラをもたいない。それでも、非常に大きな影響力をもちえる存在。という、魔力というものについては、興味が湧く。実際にプレーしないからこそ持ちうるようなヴィジョン。もしかしたらフィールドにいたらわからないこと。といものを持ったとき、その人自身はどういう気持ちなんだろうか。絶頂と孤独とに絶えず揺れ動く、リア王みたいになるのだろうか。一つの猜疑心がチームを崩壊させる、なんてことはザラなんだろう。常にあらゆる方面からのプレッシャーに耐えないといけない。プレーヤー、経営者、観客、マスコミ、コーチ。みんな彼の味方だが、同時に、彼の敵でもある。恐怖にも近い、寝ても覚めても白昼夢みたいにまとわりつくストレス。オシム監督も言っていた。「3年も同じチームにいるというのは、少し長いかもしれない」。嗚呼、なんという職業!(小島)