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むしろ老人の愚行が聞きたい

憂い顔の童子

クソどもが。

というのは、『憂い顔の童子』における主人公(大江健三郎)が加藤典洋氏の『取り替え子』に対する評論を読んだとき、シャワーを浴びながら吐き捨てた言葉だ。すげぇ、クール(笑)。加藤氏の評論を焼き捨て、クソどもが、と吐き捨てる70歳の老人のノーベル賞作家。この作品はフィクションとノンフィクションの間に引き裂かれた小説家の、非常にストレートな「モンタージュ的エッセイ」であると言える作品だ。

結局、物語の核心は最後まで明かされなかった。前作の『取り替え子』における「アレ」は、この作品においても「本当のこと」から逸脱し、至極曖昧のまま、最後は全共闘世代が集まって愛媛の山の中でデモ行進をする、という自虐的妄想が炸裂してこの作品は呆気なく終わってしまう。『ドン・キホーテ』、『リア王』、『ロリータ』、といった古典からの引用、そして過去の自分の作品や自分の家族と友人についてのエピソード、が、延々と続く。引用に告ぐ引用で、過去の古典作品と主人公の故郷における神話を現代的に再解釈して主人公が小説を書こうとする、ということについての小説、というもうホントに困りまくる構成(苦笑)。こんなのどう受け止めればいいんだ?っていう(笑)。

主人公は終始本を読み続け、様々な災難に受動的に出くわすだけ。そしてあまりにも率直でシンプルなうだうだな感情を露にする。しかしながら、この、うだうだ加減にしびれる。密告したのか?本当に罪を犯したのか?それとも母への罪悪感から生まれたものなのか?本当に本当のこと。というのは、歯切れが最悪な、犬も食えない代物だったりするのだ。逆に物語のモチベーションのコアが明らかになってしまえば、非常に愚鈍で退屈な代物になっていた可能性は大きい。正しさ、的確さよりも、「悪意を越えた情熱」で突っ走る。主人公の知人が吐くセリフにそれが端的に表れているのではないだろうか。「自分にある生の残り時間の短さ。あとせいぜい五年、それにプラスマイナス一、二年のことですからね。それだけ過ぎると、自分の存在はない。この真夜中の、行き黄昏た思いのまま、ほんの短い歳月で、自分の生は跡形もなくなる。あんまり中途半端じゃないかと思ってね。つまり、この気分に対抗しようとして、小説を書こうと思うんです」。あるいは、主人公が昏睡状態の中で自らに言い聞かせる、「私は私自身を救助しよう!」という言葉に。

そして、この作品は第三部かつ大江健三郎最後の小説、『さようなら、私の本よ!』に繋がっていく。ちなみに、この作品の第一章はこんなエリオットの引用から始まる。「もう老人の知恵など聞きたくない、むしろ老人の愚行が聞きたい。不安と狂気に対する老人の恐怖心が」。すげぇ、クール!(小島)

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