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2005年12月 アーカイブ

2005年12月15日

ゲームメイカーではなく、ゲームブレイカー

ロナウジーニョ! ~my history~
欧州最優秀選手(バロンドール)にロナウジーニョが輝いた。いつもは票がわれたり、賛否両論になったりするのだけど、今回は満場一致、という感じが強い。その、ブラジルの快楽主義の体現者、ロナウジーニョのプレーはFCバルセロナ×レアル・マドリー戦、伝統の「エル・クラシコ」でも光っていた。またしても、変態的超絶技巧。そしてあの笑顔。レアル・マドリーの「かつて」のスター達は本当に普通の不器用なオッサンに成り下がっていた。ロナウジーニョの光るプレーと出っ歯と笑顔の前では。ベッカム?、誰それ?といった感じ。

にしてもロナウジーニョは本当に凄い才能だ。ブラジルにおけるここ10年間で最も技術的に優れている才能だと思う。ペレ以降の、リベリーノ、ジーコ、シーラス、ライー、ロマーリオ、エジムンド、リバウドといったクラッキ(名手)達と較べても、彼はワンランク上のプレーヤーなのでは、と思わせる超絶テクニック。それはもはや変態的、とさえ思わず形容してしまうような、相手DFの瞳の奥底にある恐怖心を瞬時に見抜き、身体でそのまま直感的に表現してしまう才能。あらゆるチーム戦術を無効化させるその超絶テクニックは、チームメイトと相手チームの全てのプレーヤーを、一つのボールにつられる群集と化させてしまう。彼がボールを持ったとき、世界の仕組みが根底から変わってしまうのだ。

それに、というか、これが重要なんだけど(笑)、ロナウジーニョの、あの、笑顔。これに皆やられている。彼の前任者であるリバウドのあの陰鬱な表情がより彼の笑顔と前歯を輝かせている(笑)。強靭なフィジカルと鉈のような左足が特徴のリバウドのプレーは、いつも孤独に見えた。評論家やサポーターから全く得られない愛情と引き換えに、得点という結果のみでの哀しき抵抗。言うならば、彼は快楽の少ないプレーヤーだった。ブラジルという快楽主義的な国の背番号10のプレーヤーとしては、あまりにもミスキャスティング。ロナウジーニョ以前は、ブラジルにとって間違いなく冬の時代だった。けれども今ではノールックでフェイントを何重にかけながら、一対一に果敢に挑んでいく、あのサンバのようなダンスステップを僕らは観ることが出来るのだ。

選手の資質的な部分からロナウジーニョを見れば、ドリブル主体のプレーながらも常にシュート、パス、といったプレーの選択肢をギリギリのタイミングまで持っていて、プレーゾーンもかなり広範囲なことが挙げられる。ある程度のタフさとスピードを兼ね備えているから、サイドよりのプレーも可能なことが大きい。常にトップ下オンリーのポジションでしか生きない選手ではなく、左サイドから中央、そしてトップ、と自在に両足を駆使しながら危険なエリアに踊るように侵入する。見ていて自然とうはは、と笑ってしまう楽しさ。ゲームメイカーではなく、ゲームブレイカー。もはや彼はディエゴ・マラドーナ以降の最高の才能なんじゃないだろうか。ファンバステンやミッシェル・プラティニよりも上だ。

このエル・クラシコにおいても彼は超人的なプレーを披露。やや左よりでボールを受け、一気に加速して2人を交わし、ゴールネットに突き刺すこと2回。鮮やか過ぎ。この2つのゴール、全く同じプレーの反復で、一つのゴールシーンをリプレイした、と言われたとしても一瞬わからないくらいだ。相手DFはほとんど身体にチャージもできず、絶望に表情を歪めるだけ。今、間違いなくロナウジーニョの時代だ(小島)。

2005年12月16日

選ぶこと、そして生きること

自分の部屋に帰ってきたらMachintoshを立ち上げ、iTunesを開き、とりあえずシャッフルモードで曲をプレイする。というのがちょっとした音楽を聴く習慣になってしまっている。もはやコンポにCDを入れるなんてこと、久しくやっていない。とりあえずアルバム単位でデータをiTunesにぶち込んではジャンル、時代を越えて、自分の感覚にハマる曲を残し、そうでない曲をデリートし、自分の感覚にジャストなプレイリストを育てていく、というのがヤバい感じで気持ちいい。編集感覚の強度的快楽というか。Parliament"Unfunky UFO"?Jeff Mills"Mbm"?I'M NOT A GUN"Jet Stream"?Led Zeppeline"Whole Lotta Love"、という流れなんて素晴らしくクールだぜ!!とか一人でもりあがったりする。

DJ選曲術―何を考えながらDJは曲を選び、そしてつないでいるのか?
という勢いのもと、キョート・ジャズ・マッシヴのDJ/クリエイティヴディレクターの沖野修也氏の著作『DJ選曲術』を読む。DJというセレクト、編集、という行為に関るプロセスをわかりやすく、論理的に、そして親切に書いている本。テキストにおけるカットアップの方法論に生かせるんじゃないか、とか一瞬思い、手に取ったのだった。なんていう自分の姿勢とは裏腹に、この本を読み進めると純粋に自分もDJをやってみたい、という気持ちが沸き上がる。iTunesを通したオートマティックな編集的快楽よりも、より肉体的でソウルフルなフィーリングの編集スタンスが、この本にはある。

この『DJ選曲術』では、基本的に曲を選択していくうえでの方法論が順序立てて書かれてある。選曲のコンセプト、ストーリー性をもたせること、曲と曲とのつなぎ方、そして展開の意外性。ある特定のジャンルをベースに曲をかけながらも、自分のオリジナリティとして展開に意外性をもたせる。という特にジャンルを飛び越える展開方法について沖野氏が語る、「異なるジャンルの音楽を結びつけることが可能な要素をそれぞれから見つけ出し、結合させる」という部分が印象に残る。すごく基本的なことではあると思うけど、「アイディアは組み合わせによってでしか生み出されない」。どんなジャンルにおいても、これは当てはまることなんだろう。

この方法論の最後に沖野氏は、DJというのは「過去によって現在が規定される。故に完全な自由はないが、選択の余地は残されている。そして、その可能性を追及する」ことであるとし、「生きる」ことと「選曲する」ことは同義である、としている。ある歴史と対峙し、その歴史に対してどういった感じで自分の肉体は反応するのか。というのは今の僕らにわずかに残された、非常に個人的な領域だ。

東京大学のアルバート・アイラー―東大ジャズ講義録・歴史編
同じく、ディレクター的資質の強い音楽家である菊地成孔氏は著書『東京大学のアルバート・アイラー』で、「批評」という言葉を使いながら個人と歴史との関係について触れている。「自分の身体の反応と、外部から与えられた教育や歴史との相克というものを、記述のなかにどうにかして捩じ込む。という行為」が批評であるとしている。そう考えると批評性をもった表現のアプローチというのは、この二人の音楽家の著作からも特に音楽シーンでは現在重要度が増していると言えるんじゃないだろうか。少なくとも90年代的な、感覚、気分だけの強度だけで押し切る、という具合にはいかなくなった、という気がする。

選ぶという行為のなかには批評が含まれ、批評という行為のなかには歴史と自分の肉体との間に生まれるノイズがある。そういった意識的な批評性をもったアプローチというのは、DJや音楽に関らず含む表現一般において根本的に求めらるもんだと思う。そして、ある種の歴史という外部情報を参照し、自分の感覚をもっての定義付けの行為がなければ、シーンというのはあっという間に消え去ってしまうという意識が、自分のなかで今とても強い(小島)。

2005年12月26日

祝福せよ、とボールは言った

今日も世界のどこかでサッカーの試合が行われ、「マジョルカがパンディアーニにオファー」とか、「トップメラー氏がグルジア代表監督に就任」とか、サッカーにまつわるあらゆる情報が僕に届いてくる。サッカーの世界は、否、世界のサッカーと言ったほうが正確か、いずれにせよ、インターネットとの親和性が高すぎるコンテンツで、日々シャワーのようにサッカーについての言葉を僕らは浴びることが出来るのだ。けれども、そういった情報に収まりきれないサッカーについてのテキストを、僕は時々欲してしまう。例えば小説や映画といった表現と同レベルにおいて。というか、これほど情報先行の世界であると、僕が逆にその情報を組み立て、自分自身のサッカーにまつわる物語をつくりたい、という気持ちに駆られてしまうこともあるくらいだ。

そういった意味では、最近読んでいるのは細川周平氏の『サッカー狂い』で、これは僕にとっての今までのサッカーについてのテキストのなかでも最高峰に位置するものである、と断言していい(かなり前、サッカーダイジェストでヨハン・クライフの『フットボーラーよ聞け!』も図抜けた切れ味をもったエッセイで、誰かあれを書籍化しないのだろうか、と今でもごくたまに思うのだが)。現代思想に精通している音楽研究家としての細川氏の切り口は(たぶん彼は坂本龍一氏と本本堂から『未来派2009』という本を出している)、こういうサッカーのテキストがあったら、という今まで自分がひそかに抱いていた感のある文体とサッカーについてのアイディアを、かなり高いレベルで実現させている。これはやったもん勝ちだ!と一人で熱くなってしまうような、そういう、密やかな個人的充実感が、この本にはある。

この本は1989年に一度出版されたものを4年前に再度書籍化されたもので、実は内容は古い。いや、テキストの読後感はぜんぜん古くはない。むしろフレッシュだ。まず出発点として、当然1989年はJリーグもないので、フットボール不毛の地の日本において、何故自分はサッカーを愛するのか?という、孤独な、しかしながらそれ故に非常にモチベーションの高いテンションで、サッカーという正しさについて、サッカー的文体をもって語っている。本の構成自体も「前半」、「ハーフタイム」、「後半」、「ロスタイム」、「選手退場」、というような章立てになっていて、何から何までサッカーそのものになっている。この本はサッカーを語ろうとはしていない。そうではなく、サッカーになろうとした本である。細川氏も自ら書いている、「ボールの回転を凝視し、選手の身振りを観察することから紡ぎだされる思想に僕は賭けてみた」、というような方法論がベースとなっている。

その、細川氏が目指した、サッカー的文体というのはどういうものなのかと言えば、それはドゥルーズ的「リゾーム」構造をもつ、脱中心化を目指す文体、スピード、リズム、ということになる。ドゥルーズ・ミーツ・サッカー。これがこの本の最大のモチベーションでもある。「サッカーではこの地平は流動し、たえず非中心化する」、「クライフ革命、それは言葉の全き意味で、全域化されたリゾームサッカーの誕生だった」、というようなリゾーム的サッカーの言葉の数々。後書きである、「選手退場」という章でも書かれているように、「引用された選手や名場面が示すように、これは70年代のサッカーが決定的であった人間によって書かれている。そして彼にとって70年代とは『リゾーム』が書かれたディケイドでもある」と、細川氏は告白している。

そして今、ゼロ年代としてこの本を考えてみると、「脱中心化」の極地である90年代の「ゾーンプレス」を経て(90年代のあのセリエAの風景というのはやはりある種のトラウマ、なんじゃないだろうか、多くの人にとって。Jリーグを経て、そのままワールドワイドなサッカーコンテンツへと魅入られた人達は、世界の最先端が成熟を経て衰退している、と感じえてしまうような、超戦術的なサッカーに、幻滅したはずだ)、ボスマン協定後の外国人枠撤廃によるリーグのローカル性の消滅、あるいはフラットな4-4-2戦術をいかにして超越するのか、という問いから生まれた、4-3-3というフォーメーションが、この、『サッカー狂い』以後に残されたサッカーの言葉の可能性だ(あるいは、人数もフィールドも3分の1に縮小、デフォルメされた、フットサルについて語ることもそれに当てはまるんだろう)。

ローカルとグローバルがハイブリッドになった、強度のみの追及の果てに生まれたレアル・マドリードやバルセロナ、それにACミランやチェルシー。あるいは、サイドに君臨する、脱中心化の運動に抗う、神話的タレントとして登場したロナウジーニョやロッベンなどの、ウィンガーという存在。これらについて語ることが、”ポスト・サッカー狂い”としての追及すべきサッカーの言葉であり、僕はこれを意識的にやっていきたいと思う。細川氏が今後書いてみたいとしていたタイトル、『ゲームメイカーの不在、あるいは構築を引き延ばされたゲームの骨無し性について』は、『ウィンガーという古典復古と、脱領土化された身体とのアンビバレンスについて』、なんていうタイトルになるのかもしれない(小島)。

サッカー狂い―時間・球体・ゴール
細川 周平
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