今日も世界のどこかでサッカーの試合が行われ、「マジョルカがパンディアーニにオファー」とか、「トップメラー氏がグルジア代表監督に就任」とか、サッカーにまつわるあらゆる情報が僕に届いてくる。サッカーの世界は、否、世界のサッカーと言ったほうが正確か、いずれにせよ、インターネットとの親和性が高すぎるコンテンツで、日々シャワーのようにサッカーについての言葉を僕らは浴びることが出来るのだ。けれども、そういった情報に収まりきれないサッカーについてのテキストを、僕は時々欲してしまう。例えば小説や映画といった表現と同レベルにおいて。というか、これほど情報先行の世界であると、僕が逆にその情報を組み立て、自分自身のサッカーにまつわる物語をつくりたい、という気持ちに駆られてしまうこともあるくらいだ。
そういった意味では、最近読んでいるのは細川周平氏の『サッカー狂い』で、これは僕にとっての今までのサッカーについてのテキストのなかでも最高峰に位置するものである、と断言していい(かなり前、サッカーダイジェストでヨハン・クライフの『フットボーラーよ聞け!』も図抜けた切れ味をもったエッセイで、誰かあれを書籍化しないのだろうか、と今でもごくたまに思うのだが)。現代思想に精通している音楽研究家としての細川氏の切り口は(たぶん彼は坂本龍一氏と本本堂から『未来派2009』という本を出している)、こういうサッカーのテキストがあったら、という今まで自分がひそかに抱いていた感のある文体とサッカーについてのアイディアを、かなり高いレベルで実現させている。これはやったもん勝ちだ!と一人で熱くなってしまうような、そういう、密やかな個人的充実感が、この本にはある。
この本は1989年に一度出版されたものを4年前に再度書籍化されたもので、実は内容は古い。いや、テキストの読後感はぜんぜん古くはない。むしろフレッシュだ。まず出発点として、当然1989年はJリーグもないので、フットボール不毛の地の日本において、何故自分はサッカーを愛するのか?という、孤独な、しかしながらそれ故に非常にモチベーションの高いテンションで、サッカーという正しさについて、サッカー的文体をもって語っている。本の構成自体も「前半」、「ハーフタイム」、「後半」、「ロスタイム」、「選手退場」、というような章立てになっていて、何から何までサッカーそのものになっている。この本はサッカーを語ろうとはしていない。そうではなく、サッカーになろうとした本である。細川氏も自ら書いている、「ボールの回転を凝視し、選手の身振りを観察することから紡ぎだされる思想に僕は賭けてみた」、というような方法論がベースとなっている。
その、細川氏が目指した、サッカー的文体というのはどういうものなのかと言えば、それはドゥルーズ的「リゾーム」構造をもつ、脱中心化を目指す文体、スピード、リズム、ということになる。ドゥルーズ・ミーツ・サッカー。これがこの本の最大のモチベーションでもある。「サッカーではこの地平は流動し、たえず非中心化する」、「クライフ革命、それは言葉の全き意味で、全域化されたリゾームサッカーの誕生だった」、というようなリゾーム的サッカーの言葉の数々。後書きである、「選手退場」という章でも書かれているように、「引用された選手や名場面が示すように、これは70年代のサッカーが決定的であった人間によって書かれている。そして彼にとって70年代とは『リゾーム』が書かれたディケイドでもある」と、細川氏は告白している。
そして今、ゼロ年代としてこの本を考えてみると、「脱中心化」の極地である90年代の「ゾーンプレス」を経て(90年代のあのセリエAの風景というのはやはりある種のトラウマ、なんじゃないだろうか、多くの人にとって。Jリーグを経て、そのままワールドワイドなサッカーコンテンツへと魅入られた人達は、世界の最先端が成熟を経て衰退している、と感じえてしまうような、超戦術的なサッカーに、幻滅したはずだ)、ボスマン協定後の外国人枠撤廃によるリーグのローカル性の消滅、あるいはフラットな4-4-2戦術をいかにして超越するのか、という問いから生まれた、4-3-3というフォーメーションが、この、『サッカー狂い』以後に残されたサッカーの言葉の可能性だ(あるいは、人数もフィールドも3分の1に縮小、デフォルメされた、フットサルについて語ることもそれに当てはまるんだろう)。
ローカルとグローバルがハイブリッドになった、強度のみの追及の果てに生まれたレアル・マドリードやバルセロナ、それにACミランやチェルシー。あるいは、サイドに君臨する、脱中心化の運動に抗う、神話的タレントとして登場したロナウジーニョやロッベンなどの、ウィンガーという存在。これらについて語ることが、”ポスト・サッカー狂い”としての追及すべきサッカーの言葉であり、僕はこれを意識的にやっていきたいと思う。細川氏が今後書いてみたいとしていたタイトル、『ゲームメイカーの不在、あるいは構築を引き延ばされたゲームの骨無し性について』は、『ウィンガーという古典復古と、脱領土化された身体とのアンビバレンスについて』、なんていうタイトルになるのかもしれない(小島)。
