自分の部屋に帰ってきたらMachintoshを立ち上げ、iTunesを開き、とりあえずシャッフルモードで曲をプレイする。というのがちょっとした音楽を聴く習慣になってしまっている。もはやコンポにCDを入れるなんてこと、久しくやっていない。とりあえずアルバム単位でデータをiTunesにぶち込んではジャンル、時代を越えて、自分の感覚にハマる曲を残し、そうでない曲をデリートし、自分の感覚にジャストなプレイリストを育てていく、というのがヤバい感じで気持ちいい。編集感覚の強度的快楽というか。Parliament"Unfunky UFO"?Jeff Mills"Mbm"?I'M NOT A GUN"Jet Stream"?Led Zeppeline"Whole Lotta Love"、という流れなんて素晴らしくクールだぜ!!とか一人でもりあがったりする。

という勢いのもと、キョート・ジャズ・マッシヴのDJ/クリエイティヴディレクターの沖野修也氏の著作『DJ選曲術』を読む。DJというセレクト、編集、という行為に関るプロセスをわかりやすく、論理的に、そして親切に書いている本。テキストにおけるカットアップの方法論に生かせるんじゃないか、とか一瞬思い、手に取ったのだった。なんていう自分の姿勢とは裏腹に、この本を読み進めると純粋に自分もDJをやってみたい、という気持ちが沸き上がる。iTunesを通したオートマティックな編集的快楽よりも、より肉体的でソウルフルなフィーリングの編集スタンスが、この本にはある。
この『DJ選曲術』では、基本的に曲を選択していくうえでの方法論が順序立てて書かれてある。選曲のコンセプト、ストーリー性をもたせること、曲と曲とのつなぎ方、そして展開の意外性。ある特定のジャンルをベースに曲をかけながらも、自分のオリジナリティとして展開に意外性をもたせる。という特にジャンルを飛び越える展開方法について沖野氏が語る、「異なるジャンルの音楽を結びつけることが可能な要素をそれぞれから見つけ出し、結合させる」という部分が印象に残る。すごく基本的なことではあると思うけど、「アイディアは組み合わせによってでしか生み出されない」。どんなジャンルにおいても、これは当てはまることなんだろう。
この方法論の最後に沖野氏は、DJというのは「過去によって現在が規定される。故に完全な自由はないが、選択の余地は残されている。そして、その可能性を追及する」ことであるとし、「生きる」ことと「選曲する」ことは同義である、としている。ある歴史と対峙し、その歴史に対してどういった感じで自分の肉体は反応するのか。というのは今の僕らにわずかに残された、非常に個人的な領域だ。

同じく、ディレクター的資質の強い音楽家である菊地成孔氏は著書『東京大学のアルバート・アイラー』で、「批評」という言葉を使いながら個人と歴史との関係について触れている。「自分の身体の反応と、外部から与えられた教育や歴史との相克というものを、記述のなかにどうにかして捩じ込む。という行為」が批評であるとしている。そう考えると批評性をもった表現のアプローチというのは、この二人の音楽家の著作からも特に音楽シーンでは現在重要度が増していると言えるんじゃないだろうか。少なくとも90年代的な、感覚、気分だけの強度だけで押し切る、という具合にはいかなくなった、という気がする。
選ぶという行為のなかには批評が含まれ、批評という行為のなかには歴史と自分の肉体との間に生まれるノイズがある。そういった意識的な批評性をもったアプローチというのは、DJや音楽に関らず含む表現一般において根本的に求めらるもんだと思う。そして、ある種の歴史という外部情報を参照し、自分の感覚をもっての定義付けの行為がなければ、シーンというのはあっという間に消え去ってしまうという意識が、自分のなかで今とても強い(小島)。
