自分の感覚と機械が接続されてしまうこと。例えば今で言えばインタフェースと自分自身とが接続されてしまうこと、と言い換えられるかもしれない。自分自身の感覚器官と、自分ではないモノが直接的に「接木」されることによって、また別のもう一つの感覚が到来し、同時にまた別のもう一つの世界が生まれる。カメラという、どちらかというと古い機械と視神経との接続によって生まれる、元来の自分とはまた別の身体感覚についての記述、というのがこの森山大道の『犬の記憶』というエッセイだと言える。彼が追求したその身体感覚とは、自らの記憶における、過去と未来とが交差する瞬間についてのイメージのことだ。
「人間とは、所詮無数の風景の組み合せのなかを、ひたすら駆け抜けていく存在に過ぎないのだろう」と、森山氏は語る。本当に新しい風景に遭遇したと当人は思っていても、もしかしたら彼にとってその風景をただ単に忘れているだけなのかもしれない可能性なんてのは、大いにあることだ。記憶というあまりにも曖昧で頼りないガイドラインに沿って、僕らは風景を観て、何かをその場に応じて感じているに過ぎない。「無数の風景の組み合せ」のなかに僕らは存在し続けるしかない。
だからこそ、知っているとか、知っていないとか、過去であるとか、未来であるとか、そういうものから自由になること。言い換えるのなら、未知と既知とをシャッフルし、全てを一度フラットにすることによって歴史を越え、そして再度そのシャッフルされた数々のイメージを意識的に並べ替えることによって、自分にとっての新しい肉体・感覚・歴史を生み出すこと。こういった作業こそが自分自身をリアルな生へとモチベートするのではないだろうか。そして森山氏にとっての写真を撮るということとは、こういうことだと思う。
しかしながらそれは「来るべき死の風景を予感する」作業とも言える。生きながら死に向かい、死にながら生に向かう。あるいは、未来を志向しながら実は過去を見つめ、過去を志向しながら実のところ未来を見つめている。そういう、矛盾した二つのイメージの明滅を、一つのものとして見定めることが彼にとってのカメラを覗く理由である、と言えるんじゃないだろうか。あるいは、全ての表現そのものが、そういったモチベーションを孕んでいるように僕には思える。
「過ぎた時間は決して死滅しているのではなくていつも準備されているものなのである」。まったくその通りだと思う。忘れて消え去ってしまう、なんてことはないのだ。死滅したと思っていたあなたの中にある記憶というのは、実のところあなたをずっと待ちかまえている。そして、あなたが罠にかかったき、ばっくりとあなたを食い尽くしてしまうのだ。2度と、立ち直れないくらいに。
潜伏した感情と、到来する光とが交叉する瞬間。過去と未来を往来する、犬の記憶。僕にとってこの本は写真にまつわる偉大な教科書であると言っても過言じゃない(小島)。

