料理のなかにこそ最も純粋な善があるんじゃないかと、最近の僕は感じ始めている。最も暖かく、シンプルな手造り感や、五感的な癒し。そして料理というパフォーマンスや、もてなされる側の気分。そういった諸々の要素が、人と人との会話を生み出し、喜ばせ、酔わせる。
スピルバーグ監督の映画『ミュンヘン』における主人公は、暗殺・復讐を繰り返しながらも、彼の趣味である料理によってかろうじて人間性を保つ。彼が包丁を握り、様々な皿がテーブルに並ぶショットは、暗殺のショットと対称的なものとして撮られている。あるいは南仏(だと思う。特に南仏料理というのは家庭料理としての伝統がある)におけるある組織のボスとも料理をつくるシーンも、この映画に一瞬の光を与えている。電話につめられた爆弾と瑞々しい鴨肉。黒光りするマシンガンと赤いワイン。拳銃とスライスされる胡瓜。サディスティックな暴力を浄化するための、料理、テーブルのうえに並べられる皿、それを取り囲み祈りを捧げる人々。
しかしながら映画の終盤はそういった暴力と快楽との間における振り子運動が止り、暴力にまつわる陰鬱な記憶のなかにただ苦悩し続ける、という展開になってしまう(特にニューヨークのシーン以降)。復讐が人々を感染し終えたとき、その後の世界では暴力についての感染後遺症が延々と続くのである。
料理をつくり、それをともに食べる、というのが僕らにとって当たり前すぎる生活の一部であるが、しかしながらそういった行為が非常に尊いものであり、希望でさえあるというのが、この映画の切り口の一つであると思う。だからこそ、映画のラストにける食事のシーンが撮られることがなかったのは、この作品が非常に陰惨で絶望的な物語の結末だったように感じた。
それとやはりスピルバーグというと阿部和重が指摘すような「可視化」というものがキーワードになると思う。そう考えると、今までTレックスやトライポッドの可視化について向けられた創造性というのは、今回の『ミュンヘン』では「暗殺」という暴力シーンに注がれたことになる。暴力が反復され、人々を感染し、復讐とその後遺症が生まれる。というような一連の暴力にまつわる全てのプロセスを執拗に追いかけ続ける、というのがスピルバーグ的な方法論だ。当然だが、見えなかったものを見えるようにすることというのは「露悪的」なものとなる。そして極めて露悪的であるということは、『宇宙戦争』においても当てはまる。
こういったシーンの「可視化」という方法論というのは、世界を俯瞰するというものではなく、断片的に、近視眼的に世界に接するものである。あるいは、描こうとする対象物そのものになる、ということだ。例えば、Tレックスやトライポッドという架空のものの再現というものに創造性が注がれた場合、その、生物や物体のリアリティ、テクスチャー、彼らが発する音、そういった細部についてどうアプローチさせるのかが目的となる。ありきたりに言えば、細部にこそ神が宿る。というか、細部にしか神は宿らない、というスタンスだ。パレスチナ問題という広大でかつシリアスな問題を語るアプローチとしてはあまりにもミスマッチな方法論だと思う。この『ミュンヘン』においても、いつものスピルバーグらしく、物語の構造はご都合主義であり、お飾りにしか過ぎない。
なので、極論してしまえば、スピルバーグの映画においては世界の難題に対するシリアスな問題提議など存在しないのだ。政治的問題は観客の視界からすべてすり抜ける。この映画というのは、人の感情を揺さぶったり、感激させたり、悩ませたりはしない。その代わりあなた自身を人質にし、暗殺し、復讐し、気を滅入らせる。ただそれだけの、素晴らしい映画なのである。
スピルバーグがただ観させる、というだけのことについての純粋なる追求を行っているとしたら、青山真治はそれとは違うベクトルを目指して映画を撮っている、と言えるかもしれない。見事なまでに中原昌也、あるいは暴力温泉芸者のPV?、という感じの『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』とは、ちょっと微笑ましい感じの中原昌也の魅力が堪能できる作品だと思う。北海道の荒野を彼と浅野忠信氏が駆け抜け、二人とも実験音楽のミュージシャン役ということで、例えばゴムチューブが回って生まれる音なんかを録音して独自のサウンドをつくろうとしているシーンというのは、純粋な楽しさに溢れている。
物語の設定は未来。2015年、感染すると自殺してしまう謎の病気「レミング病」が大流行する日本が舞台であり、自らレミング病に感染しながらノイズ音楽をつくり続ける、浅野忠信と中原昌也が演じるミュージシャン達の物語である。彼らの奏でる音楽が唯一のレミング病の治療法だと調べ上げた大富豪役の筒井康隆は、感染した孫娘役の宮崎あおいを連れて彼らに会いに行く、というのがおおまかな物語の流れになる。
そしてこの映画のポイントというのは改めて言うまでもなくノイズについての、音にまつわる映画である。「見る」という視覚がベースとなる映画という装置について、「聴く」というまた別の感覚から捉え直す、というのがこの作品の意図だと思う。スピルバーグを頂点とする現在のハリウッドにおける、あらゆるものを見えることにしてしまう「可視化」というベクトルに対しての、もう一つ別のアプローチの提言でもある。全てが見えてしまう、ということは全てが見えていない、ということと同義だ。既にあらゆるイメージとリアリティが準備されている状態というのは人から自らイメージする力を奪い、逆に生かされている状態だと言える。全てが見えてしまう、というのは「死に至る病」だ。
情報が与えられすぎることによって、物語というものの見方が世界を俯瞰するという力を失ってしまうこと。逆に情報を限定し、生々しい音、ノイズに耳を傾けることによって逆に見えないものがイメージできるようになること。というような、スピルバーグの陰惨さとは異なる、青山真治のかすかな前向きさというものを、この作品で感じることが出来た(小島)。


