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2006年04月 アーカイブ

2006年04月10日

憂鬱と、官能と

菊地成孔の『東京大学のアルバート・アイラー・キーワード編』、それに『ユリイカ・菊地成孔特集』を連続して読む。再び菊地ブームだ。

東京大学のアルバート・アイラー―東大ジャズ講義録・キーワード編

『東京大学のアルバート・アイラー・キーワード編』は『歴史編』と同様、素晴らしく面白く、一気読みしてしまう。基本的には『歴史編』をベースに様々なゲスト講師を中心に多様的に展開していく、という構成をとっている。バークリー・メソッドという戦後の商業音楽の理論を中心にジャズ、ダンス、即興、といったキーワードを通して解説されるのだけど、これは本当に音楽における言語学、あるいは精神分析学なんだなぁ、と感じた。シニフィアンとシニフィエ、意識と無意識。といった視点と同様の、音楽という構造をいかに捉え、解体し、再生するのか、という問題意識が非常にスリリングだと思う。知的興奮というのが新鮮な形で音楽に宿り、それが今受け入れられる時代である、というような気がする。

ユリイカ 2006年4月号 特集 菊地成孔 正装の、あるいは裸の

『ユリイカ・菊地成孔特集』特集は大友良英のエッセイが素晴らしく、また伊藤俊治との対談も良かった。伊藤氏との対談では菊地氏の育ての親の話になり、片足がない女性の話が強烈だった。二人の母親が存在するという、まさに分裂的な環境に彼はいたんだな、と。すごく精神分析学的な存在なんだなぁ。というか、そういう精神分析学的なフレームの物語を自分でつくり、演出し、自分自身のガイドとする、というセラピー的な表現が彼の様々な作品のなかに散見できる。

だからこそ、受け手自身も彼のセラピー的な物語の中に没入し、ある種の癒し(あるいは菊地的に言えば官能と憂鬱)を感じ取ってしまうのだ。官能と憂鬱、というのは複数の世界をいかにスライドするのか、という方法論のことだ。刻まれた傷によって規定された自己像というものを、いかに解放し、スライドさせ、そして受け入れるのか。というプロセスそのものなんだと思う。だから言葉に対するリハビリテーションの一環として、彼の著作は大きな効力を発揮する。言葉への屈折した重苦しい感覚を少しでも緩和するための、ある種のヒーリング的なものが、彼の文体にはあるんじゃないだろうか。

サイコロジカル・ボディ・ブルース解凍 ~僕は生まれてから5年間だけ格闘技を見なかった~

特に『サイコロジカル・ボディ・ブルース解凍』は他の著作と較べると、「格闘技」というフィールドによってよりマニアックに、より濃厚な精神分析学的なアップ・ダウンがある。無慈悲で殺伐とした暴力と死の匂いが漂う格闘技の世界において、より憂鬱度も官能度も力強く展開されているんじゃないだろうか。憂鬱と官能、あるいは苦痛と快楽。という二つの両軸の間を、言葉が振り子のようにいったりきたりする。

これは彼のあらゆる文章に共通することだけど、格闘技、音楽、料理、そして心理学といった、様々なジャンルを横断し、一つのポイントに定住することなく永続的にスライドし、滑り続けていく。その、スピード感がたまらく気持ちがいい。活字を通して見える光景・感触は、絶えず変わり続ける。変化のスピード感に忠実であること。というのが、彼の魅力だ。そしてこのスピードの快楽こそが、苦痛や痛みからほんの少しだけ人を解放するのだと思う(小島)。

2006年04月23日

語りとイメージとの最良の均衡

In Utero

そう、思いだせば僕はグランジ世代なのだった。ネルシャツにハードウォッシュされたジーンズ。という服装でシアトル発のサブ・ポップレーベルの、擦れて、漂白されたギターサウンドを聴きまくっていたのだった。グランジ時代のアメリカのギターの音というのは、今振り返るとすごく異常だったと思う。あの時代のギターの音ほど汚れていて、壊れていた時代というのはなかったんじゃないだろうか。80年代以降の既存のクリアなエレクトリック・サウンドに対抗するための、等身大で、コーティングされていない、生々しいギター・サウンド。特に僕はニルヴァーナは好きで一番気に入っていたアルバムは『In Utero』だった。

カート・コバーンの死というのは、そんな僕にとってはあまりにも突然で、ショックを受けるものだった。ショックというか、ただただ呆けた。グランジというローカル主義であり、反偶像主義であったムーヴメントというのが、結果としてミュージシャンがスターに祭りあげられ、スター・システムに組み込まれる。そしてそのシステムをより完璧にするための、スター本人の自殺。これまで繰り返されてきたロックの資本化の果ての姿が、90年代にそのままリプレイされてしまったことに、僕はただ呆けてしまったのだった。

ラストデイズ

ガス・ヴァン・サント監督の映画『ラスト・デイズ』は、そんなカート・コバーンの自殺にインスピレーションを受けた作品である。彼の自殺前の2日間に焦点をあて、彼がどのように息をして、シリアルを食べ、歌を口ずさんでいたのか。そういう一つ一つの瞬間を、出来うるかぎりアンチ・ロマンティックに、ただ事物そのものの美しさを丁寧にフィルムに収めている。この映画ではニルヴァーナの曲は一切流れないし、カート役のブレイクという主人公も何か感傷的な言葉を口にすることはない。そもそもこの作品においては彼が自殺なのか他殺なのか、最後まで明確にしない。その代わりに存在するのは、主人公の言葉になり切る寸前の、詩みたいにささやかれるうわ言だったり、彼が見つめる森の吸い込まれそうな緑色、あるいは窓から注ぎ込んでくる柔らかい日の光、だったりする。そういうもののなかにしか、この映画は真実を見いださない。

それはここ最近のガス・ヴァン・サント監督の一貫した姿勢でもある。『エレファント』や『ジェリー』といった、実際の事件をモチーフに作品を撮り続けているが、事実という不動の枠組みのなかにおいて、どのようにして語り口を複数化し、分散化するのか。といった試みを繰り返している。『エレファント』も、『ジェリー』も、そしてこの『ラスト・デイズ』も、観客は結果というものを知っていて、物語の結末へ向かう強烈な枠組みが存在する。しかしながら物語は実際の事件に添ってドラマチックな展開がなされるのではなく、事件の結末に向かいながらも出来うるかぎりの即興的演出が行われる。統合と分散とが、ぎりぎりの臨界点においてせめぎ合い、ステレオタイプ化された感情に一つ一つのイメージが反抗を企てる。そういった意味ではこの『ラスト・デイズ』はカート・コバーンの死というテーマを映画化するための、最良の方法論で撮られたと言えるんじゃないかと思う(小島)。