そう、思いだせば僕はグランジ世代なのだった。ネルシャツにハードウォッシュされたジーンズ。という服装でシアトル発のサブ・ポップレーベルの、擦れて、漂白されたギターサウンドを聴きまくっていたのだった。グランジ時代のアメリカのギターの音というのは、今振り返るとすごく異常だったと思う。あの時代のギターの音ほど汚れていて、壊れていた時代というのはなかったんじゃないだろうか。80年代以降の既存のクリアなエレクトリック・サウンドに対抗するための、等身大で、コーティングされていない、生々しいギター・サウンド。特に僕はニルヴァーナは好きで一番気に入っていたアルバムは『In Utero』だった。
カート・コバーンの死というのは、そんな僕にとってはあまりにも突然で、ショックを受けるものだった。ショックというか、ただただ呆けた。グランジというローカル主義であり、反偶像主義であったムーヴメントというのが、結果としてミュージシャンがスターに祭りあげられ、スター・システムに組み込まれる。そしてそのシステムをより完璧にするための、スター本人の自殺。これまで繰り返されてきたロックの資本化の果ての姿が、90年代にそのままリプレイされてしまったことに、僕はただ呆けてしまったのだった。
ガス・ヴァン・サント監督の映画『ラスト・デイズ』は、そんなカート・コバーンの自殺にインスピレーションを受けた作品である。彼の自殺前の2日間に焦点をあて、彼がどのように息をして、シリアルを食べ、歌を口ずさんでいたのか。そういう一つ一つの瞬間を、出来うるかぎりアンチ・ロマンティックに、ただ事物そのものの美しさを丁寧にフィルムに収めている。この映画ではニルヴァーナの曲は一切流れないし、カート役のブレイクという主人公も何か感傷的な言葉を口にすることはない。そもそもこの作品においては彼が自殺なのか他殺なのか、最後まで明確にしない。その代わりに存在するのは、主人公の言葉になり切る寸前の、詩みたいにささやかれるうわ言だったり、彼が見つめる森の吸い込まれそうな緑色、あるいは窓から注ぎ込んでくる柔らかい日の光、だったりする。そういうもののなかにしか、この映画は真実を見いださない。
それはここ最近のガス・ヴァン・サント監督の一貫した姿勢でもある。『エレファント』や『ジェリー』といった、実際の事件をモチーフに作品を撮り続けているが、事実という不動の枠組みのなかにおいて、どのようにして語り口を複数化し、分散化するのか。といった試みを繰り返している。『エレファント』も、『ジェリー』も、そしてこの『ラスト・デイズ』も、観客は結果というものを知っていて、物語の結末へ向かう強烈な枠組みが存在する。しかしながら物語は実際の事件に添ってドラマチックな展開がなされるのではなく、事件の結末に向かいながらも出来うるかぎりの即興的演出が行われる。統合と分散とが、ぎりぎりの臨界点においてせめぎ合い、ステレオタイプ化された感情に一つ一つのイメージが反抗を企てる。そういった意味ではこの『ラスト・デイズ』はカート・コバーンの死というテーマを映画化するための、最良の方法論で撮られたと言えるんじゃないかと思う(小島)。


