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憂鬱と、官能と

菊地成孔の『東京大学のアルバート・アイラー・キーワード編』、それに『ユリイカ・菊地成孔特集』を連続して読む。再び菊地ブームだ。

東京大学のアルバート・アイラー―東大ジャズ講義録・キーワード編

『東京大学のアルバート・アイラー・キーワード編』は『歴史編』と同様、素晴らしく面白く、一気読みしてしまう。基本的には『歴史編』をベースに様々なゲスト講師を中心に多様的に展開していく、という構成をとっている。バークリー・メソッドという戦後の商業音楽の理論を中心にジャズ、ダンス、即興、といったキーワードを通して解説されるのだけど、これは本当に音楽における言語学、あるいは精神分析学なんだなぁ、と感じた。シニフィアンとシニフィエ、意識と無意識。といった視点と同様の、音楽という構造をいかに捉え、解体し、再生するのか、という問題意識が非常にスリリングだと思う。知的興奮というのが新鮮な形で音楽に宿り、それが今受け入れられる時代である、というような気がする。

ユリイカ 2006年4月号 特集 菊地成孔 正装の、あるいは裸の

『ユリイカ・菊地成孔特集』特集は大友良英のエッセイが素晴らしく、また伊藤俊治との対談も良かった。伊藤氏との対談では菊地氏の育ての親の話になり、片足がない女性の話が強烈だった。二人の母親が存在するという、まさに分裂的な環境に彼はいたんだな、と。すごく精神分析学的な存在なんだなぁ。というか、そういう精神分析学的なフレームの物語を自分でつくり、演出し、自分自身のガイドとする、というセラピー的な表現が彼の様々な作品のなかに散見できる。

だからこそ、受け手自身も彼のセラピー的な物語の中に没入し、ある種の癒し(あるいは菊地的に言えば官能と憂鬱)を感じ取ってしまうのだ。官能と憂鬱、というのは複数の世界をいかにスライドするのか、という方法論のことだ。刻まれた傷によって規定された自己像というものを、いかに解放し、スライドさせ、そして受け入れるのか。というプロセスそのものなんだと思う。だから言葉に対するリハビリテーションの一環として、彼の著作は大きな効力を発揮する。言葉への屈折した重苦しい感覚を少しでも緩和するための、ある種のヒーリング的なものが、彼の文体にはあるんじゃないだろうか。

サイコロジカル・ボディ・ブルース解凍 ~僕は生まれてから5年間だけ格闘技を見なかった~

特に『サイコロジカル・ボディ・ブルース解凍』は他の著作と較べると、「格闘技」というフィールドによってよりマニアックに、より濃厚な精神分析学的なアップ・ダウンがある。無慈悲で殺伐とした暴力と死の匂いが漂う格闘技の世界において、より憂鬱度も官能度も力強く展開されているんじゃないだろうか。憂鬱と官能、あるいは苦痛と快楽。という二つの両軸の間を、言葉が振り子のようにいったりきたりする。

これは彼のあらゆる文章に共通することだけど、格闘技、音楽、料理、そして心理学といった、様々なジャンルを横断し、一つのポイントに定住することなく永続的にスライドし、滑り続けていく。その、スピード感がたまらく気持ちがいい。活字を通して見える光景・感触は、絶えず変わり続ける。変化のスピード感に忠実であること。というのが、彼の魅力だ。そしてこのスピードの快楽こそが、苦痛や痛みからほんの少しだけ人を解放するのだと思う(小島)。

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