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2006年05月 アーカイブ

2006年05月01日

現実を仮借なく痛めつける文体

「わたしはずっと以前から、思ったことのすべてを述べるなんてことは諦めていた(思想と呼ばれているものが本当に存在するのかどうか、ときとしてわたしは疑問に思う)。わたしはこれからの一切を散文で書けば充分だと思った。詩とか長編とか中編小説などというものは奇妙な遺物で、もはやだれも、あるいはほとんどだれも騙されはしない。詩だの物語だのをなんのために作るのだろう。文体(エクリュチール)、もはや文体しか残っていない。言葉によって手探りし、綿密にかつふかぶかと探究し、描き、現実にしがみつき、現実を仮借なく痛めつける文体だけがある。知恵を生み出そうとしながら芸術を作るとは、難しいことだ。そういうことを知るために、あと一、二世紀も生きていられたなら、とついわたしは思ってしまう。」

とはル・クレジオの『発熱』の「手紙」と題された序文における言葉だ。すなわち、感情の統合という物語の力に抗うための限りない細部の追及に向かった、ただ純粋な書くことについての宣言文、と言ってもいい。『発熱』が発表されたのは1964年だから、ヌーヴォー・ロマン最盛期の時代だと言える。どのようにして物語という統合化のクリエイティヴを乗り越えるのか、ということに腐心していた時代だ。その一つの在り方が世界を微分化していくこと、だった。恣意的な感情のフレームのなかに事物が収斂することのないもの。あるいは、ある一つの視点から発生する構造を作り上げることのないもの。そうではなく、ただ世界の些細な部分を見つめ、描き、それに呼応する自身の感覚を追及する。その手段としての「文体(エクリュチール)」である。

こういった文体主義的なスタイルというのはどの時代でも存在する。60年代以降もそれぞれの時代にあった「文体(エクリュチール)」というのはリデザインされ続けてきた。例えば、ドン・デリーロの『ボディ・アーティスト』は現代口語体による不条理小説を書くことを試みたらこうなる、という優れたサンプルだ。この作品では余分な情報を極力殺ぎ落とし、意識・時間・感覚につての文体を構築する、という一点に力が注がれている。『アンダーワールド』のような全体小説ではなく、微分化された世界を書くときの一つの方法論がここにはある。最近読んだ日本人の作家においては、金原ひとみの『AMEBIC』は最高にカッコいい文体主義的な作品だと思う。主人公の記憶がなくなり、ある種のパニック状態になって錯乱しながら書いた「錯文」の文章で幕を開けるという、かなり凄い設定の小説だ(笑)。一つの自分、一つの世界から徹底してスライドし、分裂していく状態を文体のなかに出来うるかぎり反映している。ただし、ここにあるのはたった一つの世界から分裂し、解放される、というポジティヴな感触というのはあまり感じられない。『AMEBIC』における主人公は次のように「分裂」ということについて語っている。

AMEBIC

「皮膚も触覚も脳も思考も、全て分裂して自分自身が疎外され、隔離され、断絶されるって感覚って、わからない?というより、分裂し過ぎて自分自身というものが分からなくなって、何百にも分裂したゾアは確固として存在しているのに、自分自身というものはそれらとは全く無関係の、違う世界に存在していて、無色透明無味無臭の実体のないものではないかという不安や疑問や恐怖、とか、分からない?」

というように、ある種の不安とか恐怖とか、そういった方向にどちらかというとある。文体主義的な作品を書き、女性である、という共通項をもつ作家・赤坂真理も自身の肉体が分裂していき、微分化していく世界観を文体のなかに反映するという試みを『ヴァニーユ』、『ヴァイブレータ』等にて行なっている。が、そこにはもっと楽観的な態度があったように僕には思える。むしろ解放とか、覚醒というニュアンスが強かった。しかしながら金原ひとみが向ける視線の対象というのは、人間の欲望そのものの減退から生まれるどうしようもない分裂に対してであり、同時にそこから生まれる倦怠や困惑に対してである。この感覚の違いというのは、やはり時代的な差なんじゃないかと思う。今の潮流はドゥルーズからフロイド主義に思いっきり向かっていて、そういった意味でも、金原ひとみはすごくタイムリーな形で文体というものを追及しているんじゃないだろうか。「現実を仮借なく痛めつける文体」として、『AMEBIC』は今の時代の現実に正確にアクセスしようとしいる作品だと思う(小島)。

2006年05月08日

いかに秘密を生み出すか

レオス・カラックス―映画の21世紀へ向けて

古本屋で見つけたレオス・カラックスの本、『レオス・カラックス―映画の21世紀へ向けて』を一気読みしてしまう。あくまでも『ポンヌフの恋人』を中心とした本だが。彼の生い立ちや、映画へのモチベーション、そして作品制作の秘話、というのが書かれていて、一気に読んでしまった。割と面白い。

基本的にはレオス・カラックスの作家性と、映画という産業システムとがぶつかり合う状況を中心に、『ポンヌフの恋人』制作における3年間という長期の撮影スケジュール、膨大に膨れ上がる製作費、プロデューサーや出資者との確執、あるいはカラックスとビノシュとの関係、等が書かれている。レオス・カラックスという純粋性が『ポンヌフの恋人』制作のプロセスを通して露になる、という仕組みとなっている。

ポンヌフの恋人〈無修正版〉

やはり、レオス・カラックスという人はやはりものすごく強いロマンティシズムを抱える人で、それがある種の病でもあるという状態なんだろう。ロマンティシズムという幻想を生み出すのには「秘密」があるかどうかが重要だ。そしてそれこそが彼の人格の根本的な部分を形成していると思う。「秘密」というものに捕らわれ、そして自らそれを生み出す。「秘密」という魅力的な伝染病に完全に感染してしまっている状態。という印象を彼から受ける。そういえば彼の名前、「レオス・カラックス」という名前も偽名なのだ。表現というものは何も曝け出すことのみを言うのではなく、自分を隠す、隠蔽してしまう、というのも表現の一部だと言える。そしてカラックスというのは明らかに後者のベクトルに非常に意識的な作家なんだと思う。

監督というと、現場というチームを自在に操っていく、というものをイメージするが、カラックスの場合はある種の神秘性で現場が動いていく、という感じなんだと思う。実際、彼は『ボーイ・ミーツ・ガール』から『ポンヌフの恋人』まで、撮影現場では撮影監督であるジャン=イヴ・エスコフィエとしか話さないという。他のスタッフとは全くと言っていいほどコミュニケーションをとらないらしい。それは役者に対しても当てはまり、必要最小限の情報提供に止まる。作品の秘密、脚本の秘密、カメラの眼差しの秘密。そういったものが彼にとっての生命線になる。ストレートなコミュニケーション、欲求、というのが身体的な表現として現れるが(特にドニ・ラヴァンのなかに)、それ以外の言葉やイメージというものは非常に複雑で、秘密めいている。だから彼に対して酷く苛立つ人もいるんじゃないだろうか。特に『ポーラX』なんかはそうだと思う。

本を読んだあと、さっそく久しぶりに『ボーイ・ミーツ・ガール』を途中まで観てしまう。すごく過剰な演出、というかこれは凝った演出と言うべきか、細部にわたってすさまじいエネルギーが注がれている。終始陰鬱なムードと尋常ではない美への緊張感が充満しているが、それが時々ユーモアによって微かに解放される瞬間がいい(小島)。

2006年05月11日

感情移入とデザイン

わかりやすさというものに誰もが飢えている。ぱっと目に入る、視覚のインパクトというのは実際大きくて、わかりやすい。そういった欲望というのはこれから更に大きくなっていくんだろう。もはや良いとか悪いとかではなく、利用することも抗うことも出来ない。そういった時代に僕らは生きている。その中でもう一度、目に見えることとはどういうことか。あるいは、イメージすることとはどういうことなのか。という問いは大きな意味が出てくるんじゃないだろうか。そして、そういったことを考えるプロセスとして、デザインというものがある。

私 デザイン

石岡瑛子さんの『私デザイン』は、そういった自らイメージし、デザインするということとはどういったことなのかについて書かれてある。いや、そういった難しいことは抜きにして、ただただ面白い。一人の人間の情熱、苦闘、笑いと涙、といった感情と感覚をフル稼働した記録がこの本の中に詰まっている。

『私デザイン』は彼女が渡米した後のポートフォリオとなっていて、例えば、ポール・シュレイダー監督の日本未公開映画『MISHIMA』における金閣寺が真っ二つに割れる大胆なセット。マイルス・デイビスのアルバム『TUTU』のジャケットにおける、顔と手の表情にフォーカスを当てるデザインワーク。あるいは、フランシス・フォード・コッポラ監督の映画『ドラキュラ』における剥き出しの筋肉をイメージさせる甲冑。といった作品とともに、それぞれの仕事との出会いから終わりまでのプロセスが書かれている。

本を読んで感じたのは、やはり当たり前のことを当たり前に、丁寧に、そして粘り強くやり通すことがいかに重要であるかが書かれている。これは本当に難しいことで、プロジェクトの規模が大きくなるほどさらにハードルは高くなっていくものだ。けれども、そういった難しいハードルを思考と行動によって見事に乗り越え、作品を創り続けた日々はまさしくドラマそのものだと言っていい。優れた作品の裏側にあるプロセスというのは作品以上に劇的なものになっていく。特に大きなプロジェクトにおいては関わる人間も増えてくるので、制作チーム間では多くのぶつかり合いが生まれる。彼女はこれを“愛と憎悪(ラヴ・アンド・ヘイト)の関係”と称し、どの仕事でもこういったことは起こり、受け容れるべきものと書いている。

また、実際のデザインワークについては、まずディレクターのコンセプトに対して彼女の中の本能的なアクションがあり、それを検証するために思考が繰り返される。といったプロセスが書かれてある。彼女は次のように自身のデザインについて語っている。「大切なことは、創り手の内部に在る“血”をデザインし、“汗”をデザインし、“涙”をデザインすることではないだろうか。・・・EMPASY(感情移入)を私のデザインのキーワードとしている」。

本能的であり且つ肉体的なフィーリングこそが、表現の最大のエンジンとなる。と言うのはあまりにも簡単だが、今やモニターの中で考え、イメージし、マウスを動かすことが多くなった僕らにとっては、なかなか難しいことだ。というか、これはデザインの問題のみならず、あらゆるクリエイティヴの作業において、肉体を出発点とした表現というのは難しく、だからこそ非常に魅力的でもある。そういったことを意識し、考え、より感覚的で肉体的なアプローチとはどういったものなのか。そして単なるわかりやすさを超えた、創り手と受け手との共犯的コミュニケーションとはどういったものなか。『私デザイン』はそういった問いを反復し、具現化することに向けた最良の起爆剤となりえる本であると思う(小島)。