「わたしはずっと以前から、思ったことのすべてを述べるなんてことは諦めていた(思想と呼ばれているものが本当に存在するのかどうか、ときとしてわたしは疑問に思う)。わたしはこれからの一切を散文で書けば充分だと思った。詩とか長編とか中編小説などというものは奇妙な遺物で、もはやだれも、あるいはほとんどだれも騙されはしない。詩だの物語だのをなんのために作るのだろう。文体(エクリュチール)、もはや文体しか残っていない。言葉によって手探りし、綿密にかつふかぶかと探究し、描き、現実にしがみつき、現実を仮借なく痛めつける文体だけがある。知恵を生み出そうとしながら芸術を作るとは、難しいことだ。そういうことを知るために、あと一、二世紀も生きていられたなら、とついわたしは思ってしまう。」
とはル・クレジオの『発熱』の「手紙」と題された序文における言葉だ。すなわち、感情の統合という物語の力に抗うための限りない細部の追及に向かった、ただ純粋な書くことについての宣言文、と言ってもいい。『発熱』が発表されたのは1964年だから、ヌーヴォー・ロマン最盛期の時代だと言える。どのようにして物語という統合化のクリエイティヴを乗り越えるのか、ということに腐心していた時代だ。その一つの在り方が世界を微分化していくこと、だった。恣意的な感情のフレームのなかに事物が収斂することのないもの。あるいは、ある一つの視点から発生する構造を作り上げることのないもの。そうではなく、ただ世界の些細な部分を見つめ、描き、それに呼応する自身の感覚を追及する。その手段としての「文体(エクリュチール)」である。
こういった文体主義的なスタイルというのはどの時代でも存在する。60年代以降もそれぞれの時代にあった「文体(エクリュチール)」というのはリデザインされ続けてきた。例えば、ドン・デリーロの『ボディ・アーティスト』は現代口語体による不条理小説を書くことを試みたらこうなる、という優れたサンプルだ。この作品では余分な情報を極力殺ぎ落とし、意識・時間・感覚につての文体を構築する、という一点に力が注がれている。『アンダーワールド』のような全体小説ではなく、微分化された世界を書くときの一つの方法論がここにはある。最近読んだ日本人の作家においては、金原ひとみの『AMEBIC』は最高にカッコいい文体主義的な作品だと思う。主人公の記憶がなくなり、ある種のパニック状態になって錯乱しながら書いた「錯文」の文章で幕を開けるという、かなり凄い設定の小説だ(笑)。一つの自分、一つの世界から徹底してスライドし、分裂していく状態を文体のなかに出来うるかぎり反映している。ただし、ここにあるのはたった一つの世界から分裂し、解放される、というポジティヴな感触というのはあまり感じられない。『AMEBIC』における主人公は次のように「分裂」ということについて語っている。
「皮膚も触覚も脳も思考も、全て分裂して自分自身が疎外され、隔離され、断絶されるって感覚って、わからない?というより、分裂し過ぎて自分自身というものが分からなくなって、何百にも分裂したゾアは確固として存在しているのに、自分自身というものはそれらとは全く無関係の、違う世界に存在していて、無色透明無味無臭の実体のないものではないかという不安や疑問や恐怖、とか、分からない?」
というように、ある種の不安とか恐怖とか、そういった方向にどちらかというとある。文体主義的な作品を書き、女性である、という共通項をもつ作家・赤坂真理も自身の肉体が分裂していき、微分化していく世界観を文体のなかに反映するという試みを『ヴァニーユ』、『ヴァイブレータ』等にて行なっている。が、そこにはもっと楽観的な態度があったように僕には思える。むしろ解放とか、覚醒というニュアンスが強かった。しかしながら金原ひとみが向ける視線の対象というのは、人間の欲望そのものの減退から生まれるどうしようもない分裂に対してであり、同時にそこから生まれる倦怠や困惑に対してである。この感覚の違いというのは、やはり時代的な差なんじゃないかと思う。今の潮流はドゥルーズからフロイド主義に思いっきり向かっていて、そういった意味でも、金原ひとみはすごくタイムリーな形で文体というものを追及しているんじゃないだろうか。「現実を仮借なく痛めつける文体」として、『AMEBIC』は今の時代の現実に正確にアクセスしようとしいる作品だと思う(小島)。

