二年前の正月、僕はカメラマンの石原さんとともに自分の故郷に訪れた。石原さんのポートレイトの企画、「生きながらにして遺影を撮る」での、ちょっとした撮影旅行だった。これは思った以上に刺激的で面白い被写体体験だった。もしあなたが今死ぬとしたらどのような遺影を望むのか。遺影というものは生きている時点から準備をする必要があり、その遺影としてのポートレイトは何度でも更新されるべきものである。というコンセプトのもと、果たして僕はどこで撮られたいのか、と考えた時、自然ともう何年も帰っていない故郷の海岸で撮影したいと思ったのだった。僕自身はもう何年も自分が育った場所に帰っておらず、思いがけない自分の青春時代の追体験になった。
友人からもらった『極西文学論』(仲俣暁生著)を読んだ。ここで言う極西文学論の「極西」というのはヨーロッパから見た日本の、アメリカを通過した果ての位置のことを指す。高度資本主義の波がヨーロッパから派生してアメリカで爆発し、そしてその爆風の余波を更に西の果ての国である日本がモロに受けている。そういった欧米のポップカルチャー、テクノロジーの影響下にある村上春樹以降の90年代の日本人の作家達を取り上げ、小説の現在形について筆者は語っている。同時に、これは僕等にとっての「場所」の問題について語った本でもある。例えば、前述したような、これがもしかしたら自分のイメージの最期になるかもしれない、という「死」と向き合わざるを得ないポートレイトを考えた時に、自然と自分の脳裏に浮かび上がってくる最も生々しく強烈な思い入れのある場所、風景、空気感・・・というようなもの。そういった類のイメージがこの本の根底にあるんじゃないだろうか。
そう。極西。というだけあって、この本では「場所」や「位置」について大きなこだわりを見せている。いわゆる、「私はどこにいるのか」についての古くて新しい問題。ずっと更新され続けている問題でもある。かつての「大きな物語」は漠然とした方角を示しても、自分たちをモチベートすることが出来た時代だった。フロンティアへ。西へ。彼方へ。という具合に。まだ名付けられていない方角や地上があり、そこに自分達の欲望を向けることが出来た。が、情報技術、あるいはグローバリズムの進展によって、今、あらゆる場所はスキャンされ、監視されてしまっている。言うならば私たちの居場所は半ば剥奪されてしまっいている。隠れ家というか、自身の生活と密接に関係している場所、そしてそれが何かしらの生へのモチベーションとなりえるもの。そういうものをいかにして再発見するべきなのか。そしてそれは本当に可能なことか。日本の作家達はどういった形でこの問題と向き合っているのかを、仲俣氏はこの本のなかで検証している。
ここで問題になるのは、どのようにして自分たちの居場所を見いだすのか。という、眼差しのあり方になる。その眼差しというのは超越的な俯瞰の眼差しではありえない。俯瞰の欲望は人々を逆に盲目へと導く。今間違いなく眼差しの質の変容というのが起きていて、世界は限りなくフラットになり、視えてしまう領域は拡大していく。しかもそれは私自身の視える力ではない。視る、という機能はどんどん「私」から遠ざかっていく。自分自身の視界から見た自身の居場所というものをどのように提示するのか。それは、どのように私は世界を視ていて、世界はどのようにして私を見ているのか。その、視界のフレームをデザインすることでもある。
大きな物語が終わった後、そのどでかいブラックホールを埋めるように俯瞰的なヴィジョンが欲望として拡大している。その一方で、そういった俯瞰的な欲望を支えるように、人間のメンタリティは分裂化していっている。欲望の薬物化、現実感覚の喪失、シニシズム。といった具合に分裂はさらに進む。この悪循環を少しでも緩和するための世界へのアクセスの方法として、「物語」の存在があるんじゃないだろうか。それは恣意的な「物語の構造」を超えた、眼差しを俯瞰的な世界から逸脱させる連続性を持ったヴィジョンとしての「物語」、という意味においてだが。誰にでもその人自身でしか感じることが出来ない独特の磁場があり、その場所でしか生まれ得ない身体的な感覚があるはずだ。そういった意味においては石原さんの遺影に関する企画は僕にとってまさしく「極西文学」であった。この本ではあらゆる意味におけるローカリズムに着目し、自分自身を再発見するための眼差しの方法論を解説している。場所と眼差しとのコンビネーションの、その考察こそが、小説を現代へと向き合わせる(小島)

