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「見えない」というリアリズム

アレクサンドル・ソクーロフ DVD-BOX

父親は息子に死んでしまった妻の面影を思い出し、彼女の幻影を追って過剰に息子を愛するのか。それとも、実は彼は父親ではなく、かつての戦友の息子を引き取った義父として、同性愛者として過剰に息子を愛するのか。何が語られ、何が語られていないのか。という境界が、微妙な緊張感のなかで絶えず揺れ動く。スクリーンのなかに生まれては消えるオレンジ色の光と呼応するように。2ヶ月前ほどに観たアレクサンドル・ソクーロフの『ファザー、サン』はそのような語られているものと、語られていないもの。見えるものと、見えないもの。そういったものが交互に明滅し、スクリーンを覆う、優れて古典的な映画の語り口をもった傑作だと思った。

他者の苦痛へのまなざし
そういった見えるものと、見えないものという、イメージと他者との問題について、今非常に危機的な地点に僕等は存在するんじゃないかと思う。いわゆる、「他者の苦痛への眼差し」の有効性とはありえるのか。という問いは、あまりにも現代的でシリアスなものだと思う。暴力のイメージは日々更新され、あらゆるところに遍在し、人々を刺激し、欲望させる。ショックと恍惚との、両方の側面がある。特に写真だけではなく、テレビ、そしてインターネットと、かつては見ることが出来なかった暴力の生々しさの強度がプログレッシヴされていく状況だ。『他者の苦痛への眼差し』におけるスーザン・ソンタグは「大衆文化が許容しうる暴力とサディズムのレベルが上がっている」と考える。これはいわゆる東浩紀の「過視化」であり、阿部和重の「可視化」でもある。一見管理の届かないような空間にイメージは逃走するが、それはシステムによってユーザに検索可能なネットワークの場へ引きずり出される。そうやって日々満たされていくのだ、ユーザ達の果てしないショックと恍惚への欲望が。

かつての戦争写真は、常に新聞などの報道によって現地の陰惨な現状として我々に訴えかけ、残酷な現実の証拠として見る者に突きつける機能があった。ジャーナリズムとして、ベトナム戦争における写真報道は意義深いものがあった。しかしながら今はどうなのだろう?戦争にまつわる写真の理念と実際のイメージが解離しつつある。そう、ソンタグは考える。冷笑的に、無感動に、写真は受け止められ、それは決して行為には変換されることはない。

暴力の哲学
酒井隆史著作における『暴力の哲学』においても、同様の問題が扱われている。この本の最も面白いところは、後半の暴力と速度の問題とを結びつけて、ヴィリリオを引用しながら論を進めているところだと思う。「テロリズムは物理的破壊そのものではなく、破壊の表象こそが核心と言える」とし、「クラウゼヴィッツにおいては、「別の手段による政治の継続」として政治に従属するものであったはずの戦争が、両大戦における総力戦から冷戦を通して、テクノロジーの発展も相俟って、戦争の論理、あるいは原理的にいえば速度の論理が自律して政治を支配し消去している」と説明している。

すなわち、イメージや情報という実際の暴力が不在なところで、世界の構造そのものが生み出されつつある、ということだ。土地、あるいは身体の剥奪から生まれる、速度の支配。というか、今暴力を語るということは、グローバリズムが内包する根本的な力学についてを語る、ということと同義だ。「パレスチナの「テロリズム」がスペクタクルを活用したのは、土地を喪失し、一切の表象=代表の回路を喪失した人々が最後に見いだした「領土」だったからです。」として、我々に残された領土とは、「スペクタクル」、すなわち情報でありイメージである、としている。

こうした「スペクタクルが現実を凌駕する」という姿勢に対して、真っ向からソンタグは反抗する。「現実は退き、現実の再現のみ、メディアのみが存在する」というボードリヤール的なスタンスにも同意しない。「残虐な映像をわれわれにつきまとわせよう」と彼女は言う。「たとえそのような映像が象徴に過ぎず、それが言及している現実を到底網羅していなくても、それらはなお重要な機能を果たしている」と。イメージ上の苦痛と現実の苦痛とは永遠に一致しないのかもしれない。しかしながら、僕らにとって、このような「呪われたイメージ」を引き受けることは避けられない。

見えるものと見えないもとの境界線をいかにしてデザインするのか。果たしてそんなことが可能なのか。意志が欲望を超えることが可能なのか。そういうことを僕は考える。ソクーロフの映画を想い出しながら。窓枠に隠れる女の視線。迷彩服。男の吐く息の音。屋上を登る隣人。路上電車の銀色に光るレール。見えているもの。見えないもの。その、細切れな反復。「見えない」という身体性のリアリズムは生き残っていけるのか。ソクーロフの映画の中で主人公の男は国家からも、家族からも、あるいは女からも阻害され、そして最後に残った息子との絆さえも消え去ろうとしている。かすかに見えるのは、オレンジ色の光だけ。最後に、彼の息子はこう不安げに切り出す。僕はそこにいる?と。(小島)

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