アルノー・デプレシャン監督の『キングス&クイーン』を観終えた後の、言葉にならない絶句感といったら、あまり今まで体験したことがないものだった。これは映画なんだろうか。完全なるフィクションとしては何かの間違いなんじゃないか、と思ってしまうようなあまりにも重い質感。かといってドキュメンタリーでもない。物語の核心的な部分は洗練などされずに、残酷なまでに生々しく、どう受け止めていいか分からないまま放り投げだされている。
「クイーン」を演じるあのエマニュエル・ドゥヴォスの顔の不気味さが、僕の網膜にこびりついて離れない。への字のように両わきが下がった口元。印象深い眉毛。四角張った顔の輪郭。そして大きい瞳。彼女は笑い、喜び、憂い、泣き、戦慄する。死者とのコミュニケーションを通し、彼女のその表情は在る一定の緊張感の中で保たれるようになる。それも様々な感情を抱え、表情は断続的に変調し、均衡が崩れることを恐れながらも。そして必死に自分自身を存在させようとする意志が、彼女の表情、口元、眉毛、顔の輪郭からあらゆるわかりやすい形容詞を剥奪する。彼女の表情は必死に変調し続ける。
死者の言葉というのは徹底して重いものだ。もはやその言葉は動かしようもなくて、その言葉にこめられた感情も永遠のものとなる。自分自身の存在は否応となく変化していくのに対し、死者の言葉は生気を失い、ぱったりと動かなくなる。まず、そういった状態を理解し、受け止めることにひどく戸惑う。そう、死者からの手紙というのは受け手をひどく混乱させる。無数にあった「それ以外の可能性」が全てなくなり、「たった一つの過去」となってしまう突然の暴力。そんな予測不能な暴力に、人は恐怖を抱くようになる。理解しえないという純粋なる恐怖。しかしながら「恐れてはならない」と、アルノー・デプレシャンは語る。自分自身についての罪に対しても。あるいは、死者が向ける自分自身に対する言葉に対しても。
エマニュエル・ドゥヴォスの陰惨でありながら、あまりにも強すぎる近親相姦的な愛憎関係とは別に、もう一人の主人公である「キング」を演じるマチュー・アマルリックは非常にユーモアに溢れ、軽快そのものであり、お調子者ぶりが全開である。あるいはフランスにおける中産階級の没落のシンボルとして(?)、精神病を患い、奇行を繰り返す。病医院行きのすれすれな神経で、かろうじてこんな軽口をたたき続ける。プライドを捨てよ。血縁としての家族。あるいは、絆としての家族。その両者を敬え。そして己の愛するものを成し遂げるべし。と、彼は身振りを交え、あの独特の人懐っこい表情で、しゃべり続ける。そしてエマニュエル・ドゥヴォスと同様、彼も非常に気まぐれに表情もキャラクターも変化し続ける。哲学者かペテン師か。人徳車か偽善者か。そうやって彼は軽快に物語を掻き回し、イメージの混乱を招待する。彼にとってはルールも還元も根拠も無縁で、必要なのはいくつもの均衡だけなのだ。
マチュー・アマルリックと義理の息子との会話が終わり、少年は母親のもとに去る。そして映画のスクリーンが暗転し、映画そのものが終わりを告げたとき、僕は言いようもない感情に捕らわれたのだった。こみあげるものさえあった。シーンを観て感動したのではなく、この、あまりにもシリアスで陰惨なテーマを扱い、なおかつ何の統一感もなく、一定のわかりやすい形容詞が剥奪された物語が無事に、見事に着地した。そのことに大きく感動したのだと思う。物語が終わるという安堵を感じさせる映画なんてのは、そうそうない(小島)。
