THE DREAM OF THE BLUE TURTLES
なにかこう、久しぶりに面白いものを見たような気がする。WBA世界ライトフライ級王座決定戦、亀田興毅×フアン・ランダエタ戦。あの亀田家の存在というのは、ギリギリいっぱいいっぱいな瀬戸際感がマゾ的に観る者を多分に刺激していると思う。本当の強さなんてどうでもいいのだ。もはや。
会見でのビックマウス、ハンバーガーをかじるパフォーマンス、そして亀田家の世界制覇に向けたストイックな物語。そう、劇薬的な物語がここにはある。大いなる欠落とそれを埋めようとする主人公のプロセスが。そうして、その物語、例えそれが多分に嘘や演出が含まれていたとしても、観客はその物語のフレームへと吸い込まれ、共犯者となることを選ぶ。小泉劇場やブッシュ劇場とまったく同じ。テレビ的。という点も含め。スペクタクルの強度こそが全てであり、現実をも凌駕する。もはや新しくもなんともないことだけど。
しかしながらポストモダン的環境は主体の統合性の衰弱を利用したこうした「大きな物語」のニーズを加速させる。繰り返すけど、これは文字通りの劇薬なのだ。劇的な薬物。と書いて劇薬(笑)。僕等はこういった類の物語には今、目がない。劇薬でしか快楽は得られない。そして彼等の今後の挑戦から益々目が離せない(笑)。彼等は典型的なヒーロー、アンチ・ヒーローの境界を行き交いし、今後の記者会見での微妙さ加減も含めて、滑稽さは加速し、わかっちゃいるけど見てしまう感はさらに強まるんだろう。この、あまりにもベタな感触が、今の時代にとって「ちょうどいい」んじゃない?(にしてもちょっと飽食気味かもしれなが)。もはや洗練さは力を持たないのだ。洗練さは劇的じゃあない。だからこそ、適度の洗練と、適度のベタ感との、境界線をどうやってデザインし、均衡をつくりだすのか。というのが今のクリエィティヴのプログレッシヴさなんだと思う。
で、ちなみにこの日記のタイトルはスティングのソロファーストアルバムのタイトルからの引用。青海亀達が見る夢。セレブミュージック。懐かしい(小島)。


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