闘う男達
最近は物語が要請するキャラクターというものに興味がある。物語の構造を成立させるための人物関係、それは基本的に2人組み、カップルの関係性から物語はモチベーションを得る。主人公と、もしかしたらそうなっていたかもしれないもう一人の自分。あるいはライバル、理想像、恋人、嫌悪する存在…そういったカップルの在り方が非常にわかりやすく描かれている作品の一つとして、チャック・パラニューク原作の『ファイト・クラブ』がある。デビッド・フィンチャーについてはそれほどどうこうと言える監督ではないとは思うけど、二重人格的カップルの描き方と破壊集団の描き方がどんなんだっけ?という感じで観た。
『ファイト・クラブ』におけるカップルというのは、理想像(ブラット・ピット役)とネガティヴな自己像(主人公・エドワード・ノートン役)が分裂し、理想人格の暴走を止めるために主人公は自ら命を絶つことによって分裂した人格を統合させるものだ。その結果、主人公の「鏡」的存在である、自分の嫌悪する部分をそのままもっている女性を愛することが出来るようになる。そして最後のクライマックスのシーンにおける、息が絶えるまでの時間が主人公にとっての最も幸福な瞬間となる。主人公は理想像を殺す(克服する)ことによって「恋愛」を勝ち取るのである(なんて書いてもぜんぜんわからないと思うけど・笑)。
しかしこんな心理学的な構造をそのままやってしまっていいんだろうか。という疑問はある。あるいは、表現の今のエッジというのは、こういった構造はとりあえず置いておいて、語り口、眼差し、といった細部の追求こそにある、ということなんだろうか。例えばこの作品の中に現れるサブリミナル的なイメージやトリッキーなシーンのような。
また、『ファイト・クラブ』における破壊集団の描き方というのは、殴り合うことを「快楽」とした内側に破壊のモチベーションが向かっている男達のクラブが、やがて世界に対して具体的な破壊活動を行っていく、という内容なんだけど、こういった典型的なテロリズムと反する暴力がモチーフとなっているのが、黒沢清の『アカルイミライ』であると言える。インタビューでも黒沢監督は語っていたけど、「あからさまではないテロ」としての毒クラゲの使われ方が面白い。テロリズムにおけるありがちなマッチョさは限りなく薄められ、妄想の暴走、というよりは妄想の浮遊、という感じだ。文字通り。この選択がすごく日本的でいいと思う。
そういえば『アカルイミライ』も20代の青年「二人組み」の話だ。大江健三郎の言葉を借りれば、「おかしな二人組み」。こちらのほうは物語の中盤においてすぐに片割れになってしまい(決して2人組みの関係性を最後のクライマックスまで引っ張らない)、安定感を欠きながら落ちるところまで落ちていく。そして他者への暴力、あるいは妄想が拡散する。という仕組みだ。パラニュークの話の展開というのはすごく直線的で、その線のこちら側とあちら側を行き交いする、というのが基本的な構造になっているが、『アカルイミライ』はより曲線的で、もっと絶妙な不安定さがある。たぶんこの点が素晴らしいんだと思う(小島)。





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