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2006年10月 アーカイブ

2006年10月04日

闘う男達

最近は物語が要請するキャラクターというものに興味がある。物語の構造を成立させるための人物関係、それは基本的に2人組み、カップルの関係性から物語はモチベーションを得る。主人公と、もしかしたらそうなっていたかもしれないもう一人の自分。あるいはライバル、理想像、恋人、嫌悪する存在…そういったカップルの在り方が非常にわかりやすく描かれている作品の一つとして、チャック・パラニューク原作の『ファイト・クラブ』がある。デビッド・フィンチャーについてはそれほどどうこうと言える監督ではないとは思うけど、二重人格的カップルの描き方と破壊集団の描き方がどんなんだっけ?という感じで観た。

ファイト・クラブ

『ファイト・クラブ』におけるカップルというのは、理想像(ブラット・ピット役)とネガティヴな自己像(主人公・エドワード・ノートン役)が分裂し、理想人格の暴走を止めるために主人公は自ら命を絶つことによって分裂した人格を統合させるものだ。その結果、主人公の「鏡」的存在である、自分の嫌悪する部分をそのままもっている女性を愛することが出来るようになる。そして最後のクライマックスのシーンにおける、息が絶えるまでの時間が主人公にとっての最も幸福な瞬間となる。主人公は理想像を殺す(克服する)ことによって「恋愛」を勝ち取るのである(なんて書いてもぜんぜんわからないと思うけど・笑)。

しかしこんな心理学的な構造をそのままやってしまっていいんだろうか。という疑問はある。あるいは、表現の今のエッジというのは、こういった構造はとりあえず置いておいて、語り口、眼差し、といった細部の追求こそにある、ということなんだろうか。例えばこの作品の中に現れるサブリミナル的なイメージやトリッキーなシーンのような。

アカルイミライ 通常版

また、『ファイト・クラブ』における破壊集団の描き方というのは、殴り合うことを「快楽」とした内側に破壊のモチベーションが向かっている男達のクラブが、やがて世界に対して具体的な破壊活動を行っていく、という内容なんだけど、こういった典型的なテロリズムと反する暴力がモチーフとなっているのが、黒沢清の『アカルイミライ』であると言える。インタビューでも黒沢監督は語っていたけど、「あからさまではないテロ」としての毒クラゲの使われ方が面白い。テロリズムにおけるありがちなマッチョさは限りなく薄められ、妄想の暴走、というよりは妄想の浮遊、という感じだ。文字通り。この選択がすごく日本的でいいと思う。

そういえば『アカルイミライ』も20代の青年「二人組み」の話だ。大江健三郎の言葉を借りれば、「おかしな二人組み」。こちらのほうは物語の中盤においてすぐに片割れになってしまい(決して2人組みの関係性を最後のクライマックスまで引っ張らない)、安定感を欠きながら落ちるところまで落ちていく。そして他者への暴力、あるいは妄想が拡散する。という仕組みだ。パラニュークの話の展開というのはすごく直線的で、その線のこちら側とあちら側を行き交いする、というのが基本的な構造になっているが、『アカルイミライ』はより曲線的で、もっと絶妙な不安定さがある。たぶんこの点が素晴らしいんだと思う(小島)。

2006年10月23日

自意識と文体

嫌オタク流
『嫌オタク流』を読む。サブカルチャー消費者における自意識の一つのあり方としてのオタクに対する、徹底した嫌悪感。特に中原昌也さんのコメントが、爆笑もんだった。社会とのコミュニケーションが難しくなったとき、人は自意識をハンドリングすることが出来なくなる。簡単に言えば、閉塞的状況が人に脈略のないやっかいなプライドを抱えざるを得なくする。無駄に高いプライドと、非常に保守的な態度。という、ポストモダンの先鋭的な趣向性というオタクのイメージとは裏腹の、あなまりにも陰惨な消費者の姿がそこにはあるだけだ。アニメ的表現への限りないフェティズムを乗り越えることが出来ない、要は、自分の趣向以外のものは受け入れられない保守的な人。そんな連中が「ニュータイプ」だなんてありえない。

赤坂真理の小説の主人公も、『嫌オタク流』同様、資本主義社会下における自分の自意識をどうやってつくりだすのか、ということに腐心していたと思う。オタクにおいて、それはディスコミュニケーションであったり、フェティッシュであったりするような要素を、彼女の小説における主人公も兼ね備えていた(オタクのアプローチとはぜんぜん違うし真逆でもあるが)。外部と内部をどうやってつくりだすのか、ということについて、身体的な抑圧と解放のスイッチを自身の皮膚感覚で探り出す。そんな、非常にテクスチャー主義であり尚且つフェティッシュな方法論に、当時僕は強いインパクトを覚えた。

肉体と読書
赤坂真理の初めてのエッセイ集『肉体と読書』はこれがまたとても面白い散文になっている。もともと、赤坂真理の資質としては、全体小説を書くということよりも、より細部を追求する、文体至上主義的な資質に才能があるタイプの人だから、エッセイというフォーマットとは相性がいいのは当たり前ではある。冒頭の自らの出自に対しての言及はとても印象的だ。「私はボンテージとハウスの出身である」。ボンテージという抑圧と、ハウスという解放。それらの両極端なベクトルをもつ快楽の共存は物語的構造に依存せずとも、感情・感覚のハイ・アンド・ロウを経た濃厚な体験を得ることに繋がる。そんな赤坂真理のボンデージ的かつハウス的趣向性というのは、身体的な回路を経て、音楽的な編集を通して最終的に物語化される。という、小説世界の中によく現れている。

このエッセイを読んで思い出したことがある。文体についてだ。文体の面白さというものはどういうものだろうか、と一瞬考える。赤坂真理的な、あの、デコボコしながらも、リズミカルで、美しくさえある感触というのは、一体なんだったんだ、と。それは映像に置き換えるといいかもしれない。たとえばソクーロフのような光が明滅し、見えたり見えなかったりしながらも、人々がどっぷりと濃厚な光と影の空間に浸かってしまうような感触。僕はソクーロフの作品世界における、見える。見えない。という、不連続的な眼差しは小説の文体と相通ずるものがあるんじゃないだろうか。

小説における文体も、不連続性というのが重要で、わかる。わからない。という認識の速い。遅い。が、キーワードになってくると思う。一つのセンテンスが短く、わかりやすい口語的表現がずっとある。となると読むストレスはなく、スピード感も体験できるが、単調であり、退屈でさえなってくる。わかりやすい単語、フレーズ、センテンスの間に聴き慣れない奇妙な響きを持つ単語や、やや長めの文章が挿入されていると、その文体は一気にスリリングなものになる。例えば、速い、速い、遅い、速い、というようなリズム。このように、ある作品世界の中でわかる、わからない(あるいはすぐに感じる、感じない)、という境界線をどう引くのか、という意識は小説の文体の中にストレートに表出するんじゃないだろうか(小島)。