
『嫌オタク流』を読む。サブカルチャー消費者における自意識の一つのあり方としてのオタクに対する、徹底した嫌悪感。特に中原昌也さんのコメントが、爆笑もんだった。社会とのコミュニケーションが難しくなったとき、人は自意識をハンドリングすることが出来なくなる。簡単に言えば、閉塞的状況が人に脈略のないやっかいなプライドを抱えざるを得なくする。無駄に高いプライドと、非常に保守的な態度。という、ポストモダンの先鋭的な趣向性というオタクのイメージとは裏腹の、あなまりにも陰惨な消費者の姿がそこにはあるだけだ。アニメ的表現への限りないフェティズムを乗り越えることが出来ない、要は、自分の趣向以外のものは受け入れられない保守的な人。そんな連中が「ニュータイプ」だなんてありえない。
赤坂真理の小説の主人公も、『嫌オタク流』同様、資本主義社会下における自分の自意識をどうやってつくりだすのか、ということに腐心していたと思う。オタクにおいて、それはディスコミュニケーションであったり、フェティッシュであったりするような要素を、彼女の小説における主人公も兼ね備えていた(オタクのアプローチとはぜんぜん違うし真逆でもあるが)。外部と内部をどうやってつくりだすのか、ということについて、身体的な抑圧と解放のスイッチを自身の皮膚感覚で探り出す。そんな、非常にテクスチャー主義であり尚且つフェティッシュな方法論に、当時僕は強いインパクトを覚えた。

赤坂真理の初めてのエッセイ集『肉体と読書』はこれがまたとても面白い散文になっている。もともと、赤坂真理の資質としては、全体小説を書くということよりも、より細部を追求する、文体至上主義的な資質に才能があるタイプの人だから、エッセイというフォーマットとは相性がいいのは当たり前ではある。冒頭の自らの出自に対しての言及はとても印象的だ。「私はボンテージとハウスの出身である」。ボンテージという抑圧と、ハウスという解放。それらの両極端なベクトルをもつ快楽の共存は物語的構造に依存せずとも、感情・感覚のハイ・アンド・ロウを経た濃厚な体験を得ることに繋がる。そんな赤坂真理のボンデージ的かつハウス的趣向性というのは、身体的な回路を経て、音楽的な編集を通して最終的に物語化される。という、小説世界の中によく現れている。
このエッセイを読んで思い出したことがある。文体についてだ。文体の面白さというものはどういうものだろうか、と一瞬考える。赤坂真理的な、あの、デコボコしながらも、リズミカルで、美しくさえある感触というのは、一体なんだったんだ、と。それは映像に置き換えるといいかもしれない。たとえばソクーロフのような光が明滅し、見えたり見えなかったりしながらも、人々がどっぷりと濃厚な光と影の空間に浸かってしまうような感触。僕はソクーロフの作品世界における、見える。見えない。という、不連続的な眼差しは小説の文体と相通ずるものがあるんじゃないだろうか。
小説における文体も、不連続性というのが重要で、わかる。わからない。という認識の速い。遅い。が、キーワードになってくると思う。一つのセンテンスが短く、わかりやすい口語的表現がずっとある。となると読むストレスはなく、スピード感も体験できるが、単調であり、退屈でさえなってくる。わかりやすい単語、フレーズ、センテンスの間に聴き慣れない奇妙な響きを持つ単語や、やや長めの文章が挿入されていると、その文体は一気にスリリングなものになる。例えば、速い、速い、遅い、速い、というようなリズム。このように、ある作品世界の中でわかる、わからない(あるいはすぐに感じる、感じない)、という境界線をどう引くのか、という意識は小説の文体の中にストレートに表出するんじゃないだろうか(小島)。
