しばらく更新が途絶えておりましたので久々に更新いたします。
先日、ソフィア・コッポラが監督した『マリー・アントワネット』をみてきました。
前作『ロスト・イン・トランスレーション』は劇場ではいまいちの印象でしたが、改めてDVDでみる機会があってそのとき自分なりに見直した経緯があります。でも、彼女の映画をみる時ついついソフィアのイメージが先行してしまうのは確かなことで、結局は彼女の存在自体が現代のファッションやライフスタイルと結びついてアイコン化している以上、映画がどんな物語の容れ物を用意してもそこから見えてくるのはソフィア・コッポラという美意識、時代意識、価値観なんだよなぁと考えてしまうのは致し方ないことかもしれないですね。まあ、これまでわりとふつうにそう思ってきたのですが、今もわりとそう思っているのですが、いやいやそれってもしかして楽しみの少ない映画の見方なんじゃない?人生をつまらなくしてない?などと半ばむりやり思い立ち、謎の苦行を課す修行僧のように公開二日目の有楽町日劇PLEXにでかけて参りました。
さて、『マリー・アントワネット』を楽しもうとするなら徹底的に女子になれ!というのがこの映画へのぼくの感想です。楽しむならではなく楽しもうとするなら(傍点ふりたい)、というところが重要です。そして楽しもうとするためには自分の既成観念を振り払うことも時には必要でしょう。この映画をみてしかつめらしく現代とクロスオーバーさせて喜ぶというノリでは、せっかくの楽しみが半減するというものです。そう考えれば、おのずと脳内もバラ色になるはずですよね?だって、スクリーン中のフランス王宮はファッション・ショーさながらだし、ドレス、靴、スイーツと、何をとってもガーリー。舞台設定はエレガントでデコラティブだし、ゴージャスな朝食とゴシップと嘲笑が飛び交う夜のスノッブパーティは日夜昇天の勢いだし。しかも、夫のルイ14世は狩りと錠前作りにしか興味がなく内向的でもっさりしているのに、フェルゼン侯爵はモデル顔の涼しい男ときているし。あー、もう、悔しいほどに現代女子的残酷絵巻が眼の前に広がります。さらに史実にあるかは不明なのですが、子供が生まれたあとのマリーは『FIGARO』の南仏特集に出てくるかのようなおされ田舎でLOHASYな暮らしをしているではないですか。マジですか?時代変えてもいいんですか?と思わず目を疑いたくもなります。前々から思ってたのですが、ソフィアの起用する女優や俳優の顔にはどことなくというかすごく趣味が反映されてる気がするのは単なる妬みでしょうか。たぶんそうでしょう。いや、まあでもここまで物語を自分色に塗り替えられるのは彼女世代ではソフィア以外にいないのも事実で、こうして巨大資本でつくる空虚な物語をみるとなんだかゴッドファーザーの影も見え隠れしてしまうわけで、そのうちもうひれ伏して素直に白旗をあげてもいいような気がしてきます。いやひれ伏して楽しむだった。実際みてしまったわけだし、公開2日目だし、もうお手上げじゃないですか、殿。ディテイルと世界観を楽しむ、これが『マリー・アントワネット』の楽しみ方。うっかり歴史の再解釈なんて見方をすると目がつぶれます、きっと。(トマ)
