« お戯れがすぎますぞ、姫! | メイン | 地震と液状化現象と幽霊とのコンビネーション »

人格劇の最終的なクライマックスのあり方

万延元年のフットボール

 人格劇のことしか最近考えていない。主人公がいて、対抗人格が登場する。彼は主人公を混乱させ、欲望させる存在であり、実存しつつ、既に内面化されている。そういった、人格劇について興味がある。特に登場する様々なパーソナリティ、人格が、どのように主人公と分裂を起こしながらもシンクロするのか。そういった部分に興味関心が向いている。

 大江健三郎の『万延元年のフットボール』においても、そういった人格劇が展開されている。主人公はまず二重の喪失を体験する。障害児である子供を施設に預けざるをえなくなり、また、幼馴染の自分そっくりの友人が自殺するという二つである。現実世界における関係性(障害児である子供)の喪失と、内面世界における人格(幼馴染)の喪失という二重性。その二つの喪失が主人公のその後のモチベーションの一つになり、それは弟との再会という形で現れる。主人公に対しての弟は、血縁者として「もしかしたらそうなっていたかもしれない自分」であり、主人公が持ち得ない狂気や攻撃性をも兼ね備えている存在でもある。

 そういった主人公にとっての対抗人格が存在する物語の分かりやすい例として、チャック・パラニュークの『ファイト・クラブ』がある。こちらも主人公-対抗人格の関係性はまったく『万延元年のフットボール』と同様だ。ただし、人格劇としての『ファイト・クラブ』は対抗人格は主人公が見る幻影であり、ラストシーンにおいては対抗人格の狂気の暴走を止めるために主人公は自分にピストルを向けるに至る。要は自分が死ねば、対抗人格としての幻影も死ぬ、というオチだ。そのようなかなり後味の悪い人格の統合がなされ、主人公はヒロインと結ばれる(その後ビルは倒壊し、恋愛関係は束の間なのだが)。

 それに対し『万延元年のフットボール』では、片目を失っている主人公に対し弟は自分が自殺後に自分の眼球を使ってくれ、と懇願する。が、主人公はそれを拒否する。その代わり、弟の死後、主人公はアフリカでの翻訳の冒険的な仕事を選ぶことにより弟的な人格を内面化させ、社会との関係を回復する。こういった『万延元年のフットボール』における人格劇には狂気や暴力性をどのように内面化し、内面化した上でどのように社会と関係性を持つのか。というテーマがある。が、『ファイト・クラブ』では狂気の内面化の成功したのも束の間、その後一瞬にして破滅に陥ってしまうという、非常にシニカルな結末が待ち構えている。

 以上の二つの作品では「主人公-対抗人格」という、かなり二項対立的な構成を持っているが、阿部和重の『インディヴィジュアル・プロジェクション』では「主人公-対抗人格」という構造をとりつつも、よりその対抗軸を複数化させている。喪失はなく(というか、初めから失われている)、内面的描写はスパイの専門用語に置き換えられ、ただ主人公の混乱した語り口が日記形式を通して綴られる。「みんなわたしである」という、人格の複数性は物語の最初から最後まで継続され、統合されることはない。作品の最後にある東浩紀の解説では「多重人格的で分裂した世界の制御」と評されている。人格の統合に向けたトレーニングではなく、人格の複数化に向けたトレーニング。『インディヴィジュアル・プロジェクション』はそういった時代性を持ちえた作品であると言える。

 阿部和重の前述の二作品は「あちら側<対抗人格>」に時代の病理となる特質を持たせるのではなく、「こちら側<私>」こそが既に病理に犯されている。世界はそういった二分法において語られるリアリティは失っており、すでにこちら側の、われわれ自身の身体の中に病理が内包されているという現実認識の下、主体は病そのものであり、そういった病理的な眼差しから世界そのものが語られる。また、物語の当初から主体は既に分裂しており、対抗人格は同質であるからにして葛藤も統合も当然ない。その病理がなんらかの破壊を引き起こすプロセスをただ延々と描いていく。阿部和重の小説は何かのっぺりとした印象を受けるのはそのためだと思う。ある意味正しく小説をつくっている。

 これは金原ひとみの作品においても当て嵌まる。喪失のプロセスがなく、そのまま病理的な眼差しの中に読者は突然放り込まれる。しかしながら彼女の作品においては阿部和重のようなクールさはなく、ある種の混乱や葛藤が存在する。それは作品の中において、「あちら側<対抗人格>」が存在するからである。『AMIBIC』においての「あちら側<対抗人格>」の描かれ方は興味深い。主人公はもはや錯乱しており、理性と狂気の境界にいるような精神状態なのだが、「あちら側<対抗人格>」である人物は主人公の正式な婚約者である、非常にまっとうな常識人だ。「こちら側<私>」は既に病理の真っ只中で、「あちら側<対抗人格>」から社会的、理性的な言葉がやってくるのである。そういった村上春樹的な構造とは全く逆の構造が、『AMIBIC』にはある。

 そういえば最近、レオス・カラックスの『ポーラX』を観た。物語の終わらせ方として、絶望的だが見事な登場人物たちの人格のシンクロがラストに展開される。主人公は従兄弟の男(社会的な存在)を殺し、姉(狂気の存在)は自殺し、彼等の存在を引き受けた形で主人公は警官に捕まることによって社会化され、護送車の中で姉が見た風景の幻覚を見る。陰惨だが、正し過ぎるほどに真っ当なラストシーンだと思う。

 統合なのか。それとも分裂なのか。あるいは統合を経て分裂なのか、分裂を経て統合なのか、もしくは分裂を経て更に分裂なのか。という、人格劇の最終的なクライマックスのあり方をどのようにデザインするのか。というのがこれからも問われるんだと思う(小島)。

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.spor-e.com/mt/mt-tb.cgi/60

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)