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2007年10月 アーカイブ

2007年10月10日

UFOとポストモダンと911

サイン

M.ナイト・シャマランの『サイン』をレンタルでDVDを観る。UFOがモチーフの大きな一つとしてあるのだが、ちょうど最近『UFOとポストモダン』という本を読んでいて、とても興味深く観れた。

『UFOとポストモダン』はアメリカという歴史が存在しないコミュニティにおいて、ミッション(神)と直結せざるをえない構造をとるメンタリティーの投射として、UFO神話を取り上げている。そのUFO神話が戦後微妙に変化していて、その形跡を追っている。

神話前期としてはエイリアンは科学全盛の時代のシンボルとして、神→科学→異星人というような絶対的他者だった。その絶対的他者とのコミュニケーションが「アブダクション(誘拐)」であり、その絶対的他者は同時に内面化されている(催眠療法での告白として)。それが時代が経過していくうえにつれて、シミュラークル化し、偽造文書や映像、陰謀説といったものが中心となる。これは虚構・フィクションのあり方の変遷と全くリンクするものだ。非常に分かりやすい形での絶対的な他者、異形(小人の宇宙人や空飛ぶ円盤)という形が物語から消え、より見分けのつきづらい形で他者(例えばウイルスのような)が出現するようになる。こういった時代の波に、エイリアンは抗えなかった。

UFOとポストモダン (平凡社新書)

そしてこの『サイン』はそういったUFO神話のポストモダン化に全くといっていいほど、そぐっていない。ミステリーサークルといった超常現象や、かなりはっりとした形で(そして陳腐な)エイリアンがそのまま現れてしまい、滑稽すれすれで、時代錯誤的ですらある。何故、そういった分かりやすい形でのエイリアンを登場させたのか。1990年代後半にはもはや『メン・イン・ブラック』など、UFOやエイリアンはもはやパロディ化されているのにも関わらず、2002年当初にあってこういったベタな感じになったのは興味深い。

アメリカ人にとっては、この映画に登場するシーンの一つとして、全てのテレビ番組が全く同じニュースを放送する、酷く陰惨な事件、というのはある種のインパクトを持って迎えられるんじゃないだろうか。あまりにもわかりやすく、呆けてしまうようなはっきりとした形で出現する脅威。このトラウマがあるからこそ、あのような形でエイリアンを登場させるしか他なかった。そういった脅威(というか、この映画におけるエイリアンは過去に起こった脅威の幻影・トラウマそのものである)に対して、どのような形で向き合うか。主人公の妻が交通事故で死ぬというシーンのオーバーラップがこれほど切実に迫ってくるのは、単なる家族の間に起こった不慮の事故としてではない(というか、有色人種の監督自身が主人公の妻を謝って車でひいてしまう、という役で出てしまうのはあまりにも狙いすぎていて、凄すぎる)。非常にスレスレな、際どいポイントを狙った作品だと思う。

2007年10月19日

演技の克服

オープニング・ナイト
東北新社 (2002/05/24)
売り上げランキング: 15274
おすすめ度の平均: 5.0
5 4000円!

中目黒のプライベートな映画鑑賞会にて、ジョン・カサヴェテスの『オープニング・ナイト』を観る。こりゃあ素晴らしい。物語の冒頭で、主人公の女優は自分の若い女性ファンが交通事故で死ぬところを目撃する。彼女は若さの象徴であり、演技を超えた、ただ無償で愛する存在としての象徴でもある。女優としてのキャリアの行き詰まり、あるいは自分自身の人生の行き詰まった状態が、二重の喪失として表現される、という王道な文学的パターンで作品はスタート。

作品の中ではいくつもの世界のレイヤーが重ねられていく。舞台における演技、演技のリハーサル、舞台裏、舞台を見ている観客、舞台を離れた日常、日常における幻覚…そういった感触の違う「現実」が交差し、主人公は翻弄されていく。が、そういった現実に打ちのめされた後に彼女は最後の力を振り絞り、再び舞台の上に登ることを選ぶ。そして自らの即興性のある演技によって、彼女は複数の平行しながら存在するレイヤーを統合することを試みる。構築された演技から即興へ。即興から根源的なエモーショナルなものへ。彼女は「情熱そのもの」としか言い様のないものに到達する。

舞台の裏側から役者達がライトに照らされて映し出された瞬間、観ていて目頭が熱くなった(小島)。