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2007年12月 アーカイブ

2007年12月11日

日々の料理と思考

15分でフランス料理
今年は今までの人生の中で一番料理をした年だった。「今の世の中、詩があるのは料理くらいだ。料理をつくるこころには詩がある」。これは花森安治の言葉なんだけど、全くその通りだと思う。それに、料理をつくることは癒される。そこには純粋な善しか存在しなく、誰かにこれからつくるものを食べてもらう・あるいは自分自身で食べる。という以上でも以下でもなく、他人を裏切ったり苦い想いをすることもない。そういった意味では、家で料理をつくるということは詩的な癒しなんだと思う。

とは言え、やはり料理をつくることに毎日それほど時間をかけられるという訳でもない。例えば2~3時間たっぷりと手間隙をかけ、思慮深く、それでいて繊細な皿の数々をテーブルに並べるべくキッチンで格闘する、ということはなかなか難しい。プロフェッショナルであるなら別だが、今までも、これからも、僕は永遠のアマチュア・コックであり続けるだろう。そんなアマチュア・コックに必要なものは優れたレシピ集である。インターネットで検索すればつくりたい料理の膨大なレシピが検索できるが、やはり僕はレシピ本を眺めながら料理をつくるのが一番いい。完成された綺麗な料理の写真を見ると、料理に対するイメージが湧くし、本だからキッチンまで持ってこれてチラチラと見ることが出来る。

僕の今年最大のヒットは『15分でフランス料理』(宮内好江著:文化出版局)だ。非常に高度なテクニックが必要とされ、なおかつ調理の時間がかかるとされるフランス料理を、15分でシンプルにつくることが出来るレシピ集になっている。この本の冒頭において宮内好江さんも書かれているが、フランス人にも家庭があり、毎日をめちゃくちゃ凝りまくって食事をつくっている訳ではない。ここには、彼らフランス人達が毎日の普段の食事としてつくられるメニューのレシピがある。例えば、長ねぎのカマンベールソース、ホワイトアスパラガスとポテトのサラダ、鴨肉のマーマレードソース…どれも15分で出来上がり、しかもとびきりに旨い、立派なフランス料理だ。

フランス料理は、いや、日本料理もイタリア料理も中華料理もそうだと思うけど、料理の基本的な工夫というのは、素材のコンビネーションにある。実際野菜を切り、肉を焼き、ソースをつくると、それがよりリアルに感じられる。1+1を2にも3にもする工夫。あるいは、ちょっと合いそうもない素材のコンビネーションによる、味のインパクト。そういったコンビネーションから生まれる新しい発見や面白さというのは、全てのクリエイティブな営みの基本だろう。料理的な思考によっていくつかの要素をコンビネーションすることにより、目の前の視界はいつもよりクリアになるんじゃないかな。世の男達に告ぐ。面白いものをつくりたいと思うなら、レシピ本を買い、料理をするべきだ。忙しいとか言っちゃいけない。この本を買えば、15分で料理のコンビネーションのプロセスを体験することが出来、なおかつ旨い料理を食べることが出来るのだ!(Kojima)

2007年12月21日

ホラーとエクスタシー

悪霊 (下巻) (新潮文庫)
『カラマーゾフの兄弟』がバカ売れするようなドストエフスキー・ブームみたいなので自分もこの孤高の大作家について何か書いてみる。個人的に最も読んでいて面白い部分、あるいは惹かれてしまう部分は、「恐怖」、「ホラー」といった、感情の底の底、どん底部分の描写なんじゃないかな、と思う。例の執拗な饒舌が展開された後、一瞬の希望が差し込んだと思ったら、自分自身の存在が崩壊する、あるいはもう崩壊するしかない状況に追い込まれる。といった感情のハイ・アンド・ロウさ。愛されるか憎まれるか、奪うか奪われるか、そして生きるか死ぬか。そういったギリギリの追い込まれた状況の中で登場人物たちは喋りまくり、ピーク時には発狂する(笑)という、思いっきりカオスな過剰さに僕はどうしても魅了されてしまう。例えば、こんな描写がある。

「窓と向かい合った壁の、ドアの右手に、戸棚が一つ立っていた。この戸棚の右側の、壁と戸棚でできた窪みに、キリーロフが立っていた。それも実に奇妙な立ち方だった。身動きひとつせず、体をぴんと伸ばし、両手をズボンの縫目に当てがい、頭を起こして、後頭部を壁にぴったりと押しつけ、その窪みに収まっている様子は、そのまま全身をかき消して隠れてしまいたいとでも思っているようだった。あらゆる兆候から見て、彼はかくれているのにちがいなかったが、どうもそれが本気にできなかった。ピョートルはその隅からはいくぶん斜めの位置にいたので、彼に見えたのは、体のはみ出ている部分だけであった。彼にはまだ、左のほうへ体を動かして、キリーロフの全身を目にし、謎を解こうという決心がつかなかった。彼の心臓ははげしく鼓動しはじめた…と、突然、彼は凶暴な怒りの発作にかられた。彼は身をひるがえすと、大声をあげ、足を踏み鳴らしながら、猛然とその恐ろしい場所へ突き進んだ。」(『悪霊』)

これは『悪霊』におけるクレイジーな自殺思想にとりつかれたキリーロフに、ピョートルが本当に自殺するのかどうか、プレッシャーをかけるシーンなんだけど、もうこれはある種のホラー小説と言ってもいいぐらいだ(かなり好きなシーンだけど・笑。滑稽すれすれで)。恐怖の中にどっぷりと浸かり、どっぷり浸かりながらもうっとりしてしまうような、そういう瞬間。発狂と恍惚が繰り返され、自然と展開はジェット・コースター的になる。感情のピーク・ポイントの上下幅があまりにも大きく、しかもドストエフスキー本人が物語の中に麻痺してしまっている。そんな感じがしてならない。作家の体質が作品を侵食し、物語を歪ませている。有名な話だが、ドストエフスキーは若い頃にシベリアに服役することになり、その影響で持病の癲癇が悪化されたと言われている。ドストエフスキー作品における病との関係について、作家の加賀乙彦氏はこう指摘している。

「癇癪という病気を「父殺し」の無意識の自罰行為と考えるのは、フロイトの常道です。しかし、今、癇癪の研究はうんと進みまして、実際の癇癪は、そうした心理的なもので起こるのではなく、脳のある種の障害から起こることがわかっている…肉体と精神すべてを飲み込むような、何とも抵抗できないすさまじい発作を、彼は何度も起こしている。だから、フロイトのいうエディプス・コンプレックス的な考え方では、彼の文学は解釈できないと思います」(『21世紀ドストエフスキーがやってくる』 集英社 亀山郁夫氏との対談から)

しかしながらこのような強烈な恐怖や恍惚といった感情のうねりは、やはり中篇よりも長編に顕著に起こると思う。『カラマーゾフの兄弟』はもちろん、『悪霊』や『白痴』のような長編においてこそ、ドストエフスキー的なバッド・トリップが楽しめるようになる。作品が長くなればなるほど、構造の力は弱まり、一番初めに考えていたシナリオは破綻し、登場人物たちが何やらひとりでに喋り始める。そうやって一気にテンションが高まっていくと、あの、癇癪の副作用と言われる発作的な怒りと恍惚とした描写がピークとしてやってくる。そんな勢いで欲望と欲望がぶつかり合い、不協和音を立て、混沌とした状況を生み出しながらも、何かある一つの終末に向ってかろうじて物語が展開していく。これはある種の奇跡だと言っていい。ドストエフスキーの長編作品においてはカオスが構造化され、構造がカオス化する。絶妙なバランスを保ちながら、カオスがデザインされていく。僕はその部分においてとても感動する。

時々、僕はこう思う。ドストエフスキー作品の中にあるホラーは、もしかしたら多くの読者が待ち望んでいるものなのかもしれない、と。自分自身も人生のどこかのタイミングで起こるかもしれない、あるいは起こってしまった、避けようもなく深い恐怖と恍惚。そういったものに無意識的に引き寄せられ、体験するために、僕らは何度もドストエフスキーを読むのかもしれない。