
『カラマーゾフの兄弟』がバカ売れするようなドストエフスキー・ブームみたいなので自分もこの孤高の大作家について何か書いてみる。個人的に最も読んでいて面白い部分、あるいは惹かれてしまう部分は、「恐怖」、「ホラー」といった、感情の底の底、どん底部分の描写なんじゃないかな、と思う。例の執拗な饒舌が展開された後、一瞬の希望が差し込んだと思ったら、自分自身の存在が崩壊する、あるいはもう崩壊するしかない状況に追い込まれる。といった感情のハイ・アンド・ロウさ。愛されるか憎まれるか、奪うか奪われるか、そして生きるか死ぬか。そういったギリギリの追い込まれた状況の中で登場人物たちは喋りまくり、ピーク時には発狂する(笑)という、思いっきりカオスな過剰さに僕はどうしても魅了されてしまう。例えば、こんな描写がある。
「窓と向かい合った壁の、ドアの右手に、戸棚が一つ立っていた。この戸棚の右側の、壁と戸棚でできた窪みに、キリーロフが立っていた。それも実に奇妙な立ち方だった。身動きひとつせず、体をぴんと伸ばし、両手をズボンの縫目に当てがい、頭を起こして、後頭部を壁にぴったりと押しつけ、その窪みに収まっている様子は、そのまま全身をかき消して隠れてしまいたいとでも思っているようだった。あらゆる兆候から見て、彼はかくれているのにちがいなかったが、どうもそれが本気にできなかった。ピョートルはその隅からはいくぶん斜めの位置にいたので、彼に見えたのは、体のはみ出ている部分だけであった。彼にはまだ、左のほうへ体を動かして、キリーロフの全身を目にし、謎を解こうという決心がつかなかった。彼の心臓ははげしく鼓動しはじめた…と、突然、彼は凶暴な怒りの発作にかられた。彼は身をひるがえすと、大声をあげ、足を踏み鳴らしながら、猛然とその恐ろしい場所へ突き進んだ。」(『悪霊』)
これは『悪霊』におけるクレイジーな自殺思想にとりつかれたキリーロフに、ピョートルが本当に自殺するのかどうか、プレッシャーをかけるシーンなんだけど、もうこれはある種のホラー小説と言ってもいいぐらいだ(かなり好きなシーンだけど・笑。滑稽すれすれで)。恐怖の中にどっぷりと浸かり、どっぷり浸かりながらもうっとりしてしまうような、そういう瞬間。発狂と恍惚が繰り返され、自然と展開はジェット・コースター的になる。感情のピーク・ポイントの上下幅があまりにも大きく、しかもドストエフスキー本人が物語の中に麻痺してしまっている。そんな感じがしてならない。作家の体質が作品を侵食し、物語を歪ませている。有名な話だが、ドストエフスキーは若い頃にシベリアに服役することになり、その影響で持病の癲癇が悪化されたと言われている。ドストエフスキー作品における病との関係について、作家の加賀乙彦氏はこう指摘している。
「癇癪という病気を「父殺し」の無意識の自罰行為と考えるのは、フロイトの常道です。しかし、今、癇癪の研究はうんと進みまして、実際の癇癪は、そうした心理的なもので起こるのではなく、脳のある種の障害から起こることがわかっている…肉体と精神すべてを飲み込むような、何とも抵抗できないすさまじい発作を、彼は何度も起こしている。だから、フロイトのいうエディプス・コンプレックス的な考え方では、彼の文学は解釈できないと思います」(『21世紀ドストエフスキーがやってくる』 集英社 亀山郁夫氏との対談から)
しかしながらこのような強烈な恐怖や恍惚といった感情のうねりは、やはり中篇よりも長編に顕著に起こると思う。『カラマーゾフの兄弟』はもちろん、『悪霊』や『白痴』のような長編においてこそ、ドストエフスキー的なバッド・トリップが楽しめるようになる。作品が長くなればなるほど、構造の力は弱まり、一番初めに考えていたシナリオは破綻し、登場人物たちが何やらひとりでに喋り始める。そうやって一気にテンションが高まっていくと、あの、癇癪の副作用と言われる発作的な怒りと恍惚とした描写がピークとしてやってくる。そんな勢いで欲望と欲望がぶつかり合い、不協和音を立て、混沌とした状況を生み出しながらも、何かある一つの終末に向ってかろうじて物語が展開していく。これはある種の奇跡だと言っていい。ドストエフスキーの長編作品においてはカオスが構造化され、構造がカオス化する。絶妙なバランスを保ちながら、カオスがデザインされていく。僕はその部分においてとても感動する。
時々、僕はこう思う。ドストエフスキー作品の中にあるホラーは、もしかしたら多くの読者が待ち望んでいるものなのかもしれない、と。自分自身も人生のどこかのタイミングで起こるかもしれない、あるいは起こってしまった、避けようもなく深い恐怖と恍惚。そういったものに無意識的に引き寄せられ、体験するために、僕らは何度もドストエフスキーを読むのかもしれない。
