ジョージ・ベストと大竹伸朗

先月、慶応大学にて「『描くことと書くこと』大竹伸朗×いしいしんじ」というトークショウに出かけた。トークショウは普通の大学の教室でやったので、本当に久しぶりに学生な気分になった。と言っても、それはどちらかと言うと苦々しいものだが…何というか、あのだだっ広い教室で前方の教壇の一点を見つめ続けるというのは、非常にしんどい。教室に座っていると、反射神経的に気だるい気分になり、睡魔が襲ってくる(苦笑)。
そんな非常に鬱屈した状態だったのだが(笑)、登場した大竹さんはとてもリラックスしていて、とても楽しいトークが楽しめた。大竹さんのデフォルトの状態で発せられるユーモア感みたいなものがあって、そこが作品と直結しているような感じすらあった。トークのテーマである『描くことと書くこと』とは全く関係ない内容で、いい意味でダラダラとしたモードで対話が生まれていく。待望されていた『全景』展のカタログが完成したことも、更なるリラックスモードを生んでいたかもしれない。
大竹伸朗というアーティストは、教える・教わるという関係から逸脱した、技術的に伝えられるものというのに依存しない、むしろそういったことを拒絶するような、そういう作品をつくるアーティストだと僕は思う。既にある共通のルールを前提としたコミュニケーションの外側に存在すること。あるいは、まだお互いまっさらの状態で向き合って何かの意志を交わす、あるいは発したり受けたりする、というような対話・・・そういった関係を僕らに求めてくる。なので大竹さんの作品にはいつもスリリングな魅力がある。
『全景』展では「言葉を必要としない、圧倒的な何か」を目指した、と大竹さんは語っていたが、この「言葉を必要としない、圧倒的な何か」というのは果たしてどんなことなんだろうか、と考えてみる。小説というか、文学の問題で考えてみると、二元論的な物語のフレームに対する批判というのが、このジャンルでは必ずある。しかしながら物語を解体し、意味の外側に向う強度の追及というのは、洗練を獲得するのと同時に、退屈さにつながってしまうというジレンマがある。要は、わかりやすい感情の推移をデザインする物語のフォーマットというのは、形骸化され、リアルさを剥奪されつつあるが、物語のフォーマットに依存しない作品の中で展開される反復や引用というのは、正直面白くないし、退屈になりがちである。これはアートの世界にも通じる問題だと思う。
もう一度物語の再生を目指すのか。それとも強度の追求を目指すのか。そういった判断が問われる中、大竹さんの作品は強度追求へ向っている。というか、初めから感情の推移なんていう問題には興味がなく、ただマンチェスター・ユナイテッドのジョージ・ベスト(大竹さんが彼のファンであるとエッセイ集『既にそこにあるもの』で語っている)の有無を言わさないドリブル突破のようなものだけを目指す(しかもそれは誰ともパス交換せず、チームプレイとかも無しの、孤独なドリブルだ)。そしてなおかつ面白い、というのはやはり奇跡なんだと思う。
その面白さ、魅力というのは、成熟というのを一切拒否し、ちょっと高尚そうなもの、意味ありげなもの、偉そうなものを丁寧に世界から削除しまくり、そこから残ったありとあらゆる無駄でゴミでなおかつちょっとだけいとおしく、ユーモアがあるものをかき集めてきては作品の中にぶち込む、というところからやってくる。とにかく有効じゃないものを徹底して量産すると、そこには言葉には出来ない強度が現れてくる…しかしながらこの作業を貫徹するには、よほどの強い意志と勇気と、ま、いっか的ないい加減なノリが奇跡的に同居しないと完成することはないんじゃないか、と思える(笑)。
大竹さんのそんな天才性から生み出された作品というのは、やはり根本的には我々の間では共有できない、非常に孤独な意志の結晶体であるような気がする。テクスチャーの中にかろうじて見えるヒーローやピンナップ・ガールに僕らはぷっと吹き出してしまうが、作品自体に対してはやはり圧倒されるほかないのだ。(小島)



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