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2008年01月 アーカイブ

2008年01月04日

ジョージ・ベストと大竹伸朗

既にそこにあるもの (ちくま文庫)
先月、慶応大学にて「『描くことと書くこと』大竹伸朗×いしいしんじ」というトークショウに出かけた。トークショウは普通の大学の教室でやったので、本当に久しぶりに学生な気分になった。と言っても、それはどちらかと言うと苦々しいものだが…何というか、あのだだっ広い教室で前方の教壇の一点を見つめ続けるというのは、非常にしんどい。教室に座っていると、反射神経的に気だるい気分になり、睡魔が襲ってくる(苦笑)。

そんな非常に鬱屈した状態だったのだが(笑)、登場した大竹さんはとてもリラックスしていて、とても楽しいトークが楽しめた。大竹さんのデフォルトの状態で発せられるユーモア感みたいなものがあって、そこが作品と直結しているような感じすらあった。トークのテーマである『描くことと書くこと』とは全く関係ない内容で、いい意味でダラダラとしたモードで対話が生まれていく。待望されていた『全景』展のカタログが完成したことも、更なるリラックスモードを生んでいたかもしれない。

大竹伸朗というアーティストは、教える・教わるという関係から逸脱した、技術的に伝えられるものというのに依存しない、むしろそういったことを拒絶するような、そういう作品をつくるアーティストだと僕は思う。既にある共通のルールを前提としたコミュニケーションの外側に存在すること。あるいは、まだお互いまっさらの状態で向き合って何かの意志を交わす、あるいは発したり受けたりする、というような対話・・・そういった関係を僕らに求めてくる。なので大竹さんの作品にはいつもスリリングな魅力がある。

『全景』展では「言葉を必要としない、圧倒的な何か」を目指した、と大竹さんは語っていたが、この「言葉を必要としない、圧倒的な何か」というのは果たしてどんなことなんだろうか、と考えてみる。小説というか、文学の問題で考えてみると、二元論的な物語のフレームに対する批判というのが、このジャンルでは必ずある。しかしながら物語を解体し、意味の外側に向う強度の追及というのは、洗練を獲得するのと同時に、退屈さにつながってしまうというジレンマがある。要は、わかりやすい感情の推移をデザインする物語のフォーマットというのは、形骸化され、リアルさを剥奪されつつあるが、物語のフォーマットに依存しない作品の中で展開される反復や引用というのは、正直面白くないし、退屈になりがちである。これはアートの世界にも通じる問題だと思う。

もう一度物語の再生を目指すのか。それとも強度の追求を目指すのか。そういった判断が問われる中、大竹さんの作品は強度追求へ向っている。というか、初めから感情の推移なんていう問題には興味がなく、ただマンチェスター・ユナイテッドのジョージ・ベスト(大竹さんが彼のファンであるとエッセイ集『既にそこにあるもの』で語っている)の有無を言わさないドリブル突破のようなものだけを目指す(しかもそれは誰ともパス交換せず、チームプレイとかも無しの、孤独なドリブルだ)。そしてなおかつ面白い、というのはやはり奇跡なんだと思う。

その面白さ、魅力というのは、成熟というのを一切拒否し、ちょっと高尚そうなもの、意味ありげなもの、偉そうなものを丁寧に世界から削除しまくり、そこから残ったありとあらゆる無駄でゴミでなおかつちょっとだけいとおしく、ユーモアがあるものをかき集めてきては作品の中にぶち込む、というところからやってくる。とにかく有効じゃないものを徹底して量産すると、そこには言葉には出来ない強度が現れてくる…しかしながらこの作業を貫徹するには、よほどの強い意志と勇気と、ま、いっか的ないい加減なノリが奇跡的に同居しないと完成することはないんじゃないか、と思える(笑)。

大竹さんのそんな天才性から生み出された作品というのは、やはり根本的には我々の間では共有できない、非常に孤独な意志の結晶体であるような気がする。テクスチャーの中にかろうじて見えるヒーローやピンナップ・ガールに僕らはぷっと吹き出してしまうが、作品自体に対してはやはり圧倒されるほかないのだ。(小島)

2008年01月18日

ラディカルさについて

無垢に、無防備に微笑みかける女。どうしてこんな感じの表情が出来るんだろう、というような笑みの具合。そんな表情が微妙に角度を変えながら、反復されていく。嬉しい?恥ずかしい?誘っている?…とにかく惹きこまれてしまう。それからカメラを避けるように視線を避け、あるいはハンドバッグで自分の顔を隠す、女たち。赤く照らされた部屋の中で、一様に派手目のドレスを着こなし、女たちは表情を強張らせている。そして海。ずっと向こう側へと続く砂浜、波しぶき、雲ひとつない空、全てが太陽に照らされて、銀色に、まぶしく、輝いている。

東京都写真美術館で「日本の新進作家 VOL.6: STILL/ALIVE スティル/アライブ」を見る。もちろん大橋仁目当てだ。大橋さんの作品は一室の4つの壁に展示され、バンコク、リオデジャネイロ、ハワイといった海外で撮影されていた作品が並べられていた。どの作品も鮮烈な光を帯びていて、今、この瞬間の中で存在しているものを見事に切り取っている。大橋さんの作品は以前の個展『ラッキーか?』も行ったし、写真集ももちろん持っていたりするのだが、ラディカルさ、特に根源的なという意味でのラディカルさをいつも作品から感じている。

ラディカルさというのはどこからやってくるのだろうか。かつてスーザン・ソンタグはこう語っている。

「作品の表面が極めて統一的で明晰であり、作品の運動がおそろしく迅速であり、作品の訴えかけが実に直積的なので、作品はついに…まさにそれ自身となる」(『反解釈』)。

このような、解釈の余地を残さないこと、有無を言わさないようなイメージを僕らに突きつけることこそが根源的な力であり、そういったラディカルさが大橋仁の作品の中には間違いなく、ある。まさしく、光そのもの、あるいは、生の瞬間そのものが極めて高い濃度を持ちながら僕らの目の前に現れる。

そしてラディカルさというのは、スーザン・ソンタグの『ラディカルな意志のスタイル』という著作タイトルの通り、この「意志」と「スタイル」が見事に一致したときにこそ生まれるものなんじゃないだろうか。作家の意志や衝動から生まれるメッセージは、必ずしもそのメッセージに適したフォルムや構造をまとっているとは限らない。今の時代はもっと巧妙な仕掛を使ったコミュニケーションが求められているような気がする。一筋縄でいかない複雑な世界をリアルに表現するためには、また作品も複雑になりがちではある。だからこそ、「意志」と「スタイル」が一致しているような作品を発表できるような才能は稀有であると言っていい。大橋さんの表現というのは、そういった数少ない類の力を持つものだと思う。

蛇足だが、大橋さんのブログは抜群に面白い。言葉も扱える写真家ということで、大橋さんは荒木さんや森山さんのような非常に的確に自分たちの写真について語る写真家の、正当な系譜に連なる才人なんだと思う。(小島)

2008年01月24日

星のチカラ

「例えばさ、ずっと一つの星を見上げていると、自分がその星に落ちていきそうな気がしてこない?」

金原ひとみ著作『星へ落ちる』を読だ。冒頭はこんなセリフから始まる。ずっと一つの星を見つめていると、どんどんその星の発する光に魅入ってしまい、いつの間にかその星の引力によって引きよせられている。もうここまで書けばわかると思うが、タイトル中の「星」というのは「ヒト」にあたる。だから星へ落ちるというのは、彼/彼女に落ちる(あるいは堕ちる)、ということだ。

『星へ落ちる』という作品は、人の魅力(引力)についての物語になる。どのようにして彼/彼女に惹きつけられ、そして自分自身を見失うのか。そのプロセスが相変わらずの金原節によって描かれている。例えば、一人一人は孤独な惑星で、だだっ広い宇宙を彷徨い続けているみたいに。アパートやマンションの部屋で、1人携帯を握り締め、相手からのメールや着信をひたすら待ち続ける。自分が発信したSOSの電波は相手にちゃんと伝わったのだろうか。他の惑星に届いているのだろうか。少しでも近づきたい、という衝動に駆られて、気が付いたら相手の引力から逃れられなくなっている。遂には、自身の重力を自分でも支えきれなくなる。なんていうプロセス。そしてこの物語ではそれが彼にも、彼女にも、無差別に起こり、入れ代わり立ち代り自らの重力によって自壊する。

この作品の中で個人的に一番面白かったのは、登場人物の女性作家(またしても・笑)が、昔の男からしつこくかかってくる電話の会話をその場でタイプし続けるシーンだ。彼女は男と通話中の携帯電話を肩と首で挟みながら、パソコンに向ってカタカタとキーパンチを始める。そして限界すれすれまでに追い込まれた男の焦燥感や叫びをクールにタイプしていく(こんなことされたら嫌だ、自分は・笑)。自分の中に入ってきた言葉を瞬時に切り取ってはPCの中に叩き込むような、オートマティックで残酷な言葉に対する眼差し。これは金原ひとみの一貫したスタイルだと言っていい。不安、焦り、しんどさ、一瞬不意に訪れる安らぎ、その後の絶望、そういった言葉が体の奥の奥から搾り出されながらも、一つ一つの言葉の手触り間は冷たく、むしろ醒めている。緊張や絶望がヒートアップすればするほど醒めていく。感情のレベルがアップダウンを繰り返しながらも、書き付けられる言葉はあくまでもクールでどこか突き放した感触がある、というのがこの作家の魅力なんだと思う。

作品の最後のほうで、自分を振った女をみじめに追いかけ続ける男が、解放される。「泣きながら笑って思う。俺は解放されたんだ。きっとずっと、俺は彼女と知り合ってからずっと、彼女の望む俺であろうとしてきたような気がする。彼女が出て行ってからも、彼女がこうして欲しいんじゃないかと思うことを先回りしてやってきたような気がする…彼女に遠隔操作されているみたいに、彼女が望むであろうことを実践してきた。でも俺は解放された」と彼は感じる。星の、彼女の、引力からやっと解放され、自分自身を取り戻す。恋愛で自分自身らしくなる?ここではそんなことは一切ない。もっと気違いじみていて、もっとも自分自身から遠く、他者に近すぎている状態。恋愛が終わってやっと自分らしくなる。そしてまた広大な宇宙の中を浮遊する孤独な惑星となる。まったく、やっかいなものだ(小島)。