
無垢に、無防備に微笑みかける女。どうしてこんな感じの表情が出来るんだろう、というような笑みの具合。そんな表情が微妙に角度を変えながら、反復されていく。嬉しい?恥ずかしい?誘っている?…とにかく惹きこまれてしまう。それからカメラを避けるように視線を避け、あるいはハンドバッグで自分の顔を隠す、女たち。赤く照らされた部屋の中で、一様に派手目のドレスを着こなし、女たちは表情を強張らせている。そして海。ずっと向こう側へと続く砂浜、波しぶき、雲ひとつない空、全てが太陽に照らされて、銀色に、まぶしく、輝いている。
東京都写真美術館で「日本の新進作家 VOL.6: STILL/ALIVE スティル/アライブ」を見る。もちろん大橋仁目当てだ。大橋さんの作品は一室の4つの壁に展示され、バンコク、リオデジャネイロ、ハワイといった海外で撮影されていた作品が並べられていた。どの作品も鮮烈な光を帯びていて、今、この瞬間の中で存在しているものを見事に切り取っている。大橋さんの作品は以前の個展『ラッキーか?』も行ったし、写真集ももちろん持っていたりするのだが、ラディカルさ、特に根源的なという意味でのラディカルさをいつも作品から感じている。
ラディカルさというのはどこからやってくるのだろうか。かつてスーザン・ソンタグはこう語っている。
「作品の表面が極めて統一的で明晰であり、作品の運動がおそろしく迅速であり、作品の訴えかけが実に直積的なので、作品はついに…まさにそれ自身となる」(『反解釈』)。
このような、解釈の余地を残さないこと、有無を言わさないようなイメージを僕らに突きつけることこそが根源的な力であり、そういったラディカルさが大橋仁の作品の中には間違いなく、ある。まさしく、光そのもの、あるいは、生の瞬間そのものが極めて高い濃度を持ちながら僕らの目の前に現れる。
そしてラディカルさというのは、スーザン・ソンタグの『ラディカルな意志のスタイル』という著作タイトルの通り、この「意志」と「スタイル」が見事に一致したときにこそ生まれるものなんじゃないだろうか。作家の意志や衝動から生まれるメッセージは、必ずしもそのメッセージに適したフォルムや構造をまとっているとは限らない。今の時代はもっと巧妙な仕掛を使ったコミュニケーションが求められているような気がする。一筋縄でいかない複雑な世界をリアルに表現するためには、また作品も複雑になりがちではある。だからこそ、「意志」と「スタイル」が一致しているような作品を発表できるような才能は稀有であると言っていい。大橋さんの表現というのは、そういった数少ない類の力を持つものだと思う。
蛇足だが、大橋さんのブログは抜群に面白い。言葉も扱える写真家ということで、大橋さんは荒木さんや森山さんのような非常に的確に自分たちの写真について語る写真家の、正当な系譜に連なる才人なんだと思う。(小島)
