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2008年02月 アーカイブ

2008年02月01日

美と人生を提供すること

ハーモニー・コリンの『ミスター・ロンリー』の試写会に当たり、心して試写場へ行き、心して映画を観た。何しろ、8年ぶりの監督作品。正直恐いもの見たさもあった。ましてやプロモーションが「パリでマイケル・ジャクソンとマリリン・モンローが恋に落ちる」という、破天荒すぎる宣伝文句。全くどんな物語なのか予測がつかない。そんなちょっと困惑気味の気持ちで僕はソファに座った。そして予想通りのマイケルとマリリンのモノマネ芸人が登場し、軽い笑いのジャブが入るが、2人がパリを経ち、スコットランドの館へど移動すると、たちまちにこの作品のモードはシリアスなものへと変わる。

かつての『ガンモ』や『ジュリアン』のような散文詩的な感触と、古典的とも言えるような物語に対するアプローチの二つが、この作品では見事に融合されている。これが僕の第一印象だった。いままでのハーモニー・コリン作品のような、イメージの速度でズタズタに意味を切り裂きまくった後の呆けた後味は、微塵も残っていない。この作品の中にあるのはより緻密で、最後まで緊張感は保たれたまま壊れそうで壊れない、明晰な美意識だ。そこがこの作品の素晴らしさだと思う。ハーモニー・コリンは初めて普遍的な古典へと向ったと言えよう。

相変わらず雨のシーンはいいし、青い服を着たシスター達もとにかく幻想的。淡く優しいスカイブルーの中を、自転車に乗ったシスターが舞い、森の木々から光が差し込む、そしてスカートがめくれるマリリン・モンローの恍惚とした表情。間違いなくポエトリーな瞬間に僕らは何度も触れることが出来る。しかし、これらの美しいイメージの数々はかつての作品の中での「置かれ方」が明らかに違っている。

幼児体質な、前衛性やサンプリング、オマージュ、ドグマといった手法を乗り越え、どのような感情のフォルムを描き、デザインするのか、という意識に彼は覚醒している。ポエトリーなイメージをどのようにして掴むのか、という類まれなるセンスはそのままに、作品全体のインパクトの強さは増している。これは「後退」ではない。立派な「前進」だ。彼はちゃんと虚偽と真実に切り裂かれて、抑圧と開放を見つめている。さようなら、90年代。ハーモニー・コリンは見事に思春期を卒業し、また違う人生のフェーズへと歩み始めた(小島)。

2008年02月10日

「私」の不在あるいは遍在

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多和田葉子の描く世界の主人公たちは自分を繰り返し確認することで、同時に「私」の不在を抱きしめているようなイメージがある。

例えば、表題作「海に落とした名前」の記憶喪失の主人公は、自らの痕跡を辿るために、レシートを凝視し、過去の消費行動を分析する。「土木計画」の主人公である女社長は機械のように合理化されたルーティーンの中に自らを放り込み、自分の容姿をコントロールするためにアンチ美容・整形に挑む。それらは自分のフレームを確かめようとする行動に他ならないが、そこに自己愛の充足はない。彼らは「私」の空虚さを強く意識しているからこそ、執拗に自身のフレームをなぞり続けるのだ。

読者にとって、多和田葉子の小説はその空虚さを味わうための嗜好品だ。空虚はギリギリと噛み締めるものではなく、まったりと口に含むもの。その味は、そこそこ甘くメロウで、ひとりで飲むアルコールに似ている。

ところが空虚が醸し出す酔いは、自らの内に留まらず、漏れ出て転移するらしい。小説のなかで主人公は、獣や隣人など、思いもよらぬ形をとった「虚しきもの」たちからの、不意打ちの訪問にあう。具現化した虚しさは、自分を罰しに来た悪魔のようでもあり、親しげな共犯者のようでもある。

それはぞっとするような体験だと想像する。しかしなぜか読みすすめるうちに、読者である私自身もその存在を待っているような気がしてきてしまう。悪魔、あるいは共犯者の出現を待ち焦がれる。 (蜂)

2008年02月17日

母とはなにものか

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最近の角田光代の小説を読むと、なにを読んでもとても息苦しい。抜けがない。それだけ、彼女の小説には逃げがなく、真実に迫っているのかもしれない。

短編集『マザコン』も、読んでいて息苦しい小説だった。彼女が母であるというだけで、彼らが子どもであるというだけで…、なぜここまで詮索され、傾倒され、反発されなければならないのか。

「聖でも俗でもなくて、もともと母ではなかったがたまたま母になってしまった人を書きたかった」
と、角田光代は言う。

「聖でも俗でもなくて」。大抵の人はそんなものだ。普通の女に、否応なしに強烈なスポットライトが当てられるのが、母になるということなのだろう。
ひとたびスポットライトが当たるステージに出れば、賞賛や批判を甘んじて受けなければならないわけで…。その結果、さまざまなストーリーが生まれる。母たちに、それを阻止する権利はない。

ところで話はずれるけど、子が母のことを語る小説はごまんとあるけれど、母が子のことを綿々と書き綴った小説というのは、あまり見かけない。井戸端会議で我が子のことばかり喋る母親は、いくらでもいるのに。

なぜなんだろう? 実は母親とは、定説とは裏腹に我が子にそこまで入れこんでいないものなのか、それとも、子どもたちに手の内を明かすまいとする大人の配慮なのか…。
いずれにしても、賢明なことだ。 (蜂)

2008年02月25日

イメージの辺境に触れる

誰にしろ鞄にカメラを突っ込む時、それなりの目的や理由がプロ・アマ問わずに頭の片隅にはあるものだ。ある特定の光景が目の前に現れたら、時間を止め、半永久的に残したいと思わずにいられないもの。たぶんその気持ちの強さの度合いが、写真を作品たらしめるものなのだろう。そんな写真を撮るという行為は、とても私的で、密やかな冒険じみたプロジェクトでもあり、彼らが生きていくうえで必要なことなのだ。

僕はこのような写真的なプロジェクトは大好きだ(そしてこういった要素は写真のみならず、小説やルポルタージュといった表現の中にもある)。たぶん写真だと他人の気分や感覚がダイレクトに伝わるからだろう。とても生々しく、彼らの企み、冒険、眼差しの先にあるものに触れることが出来る。なるほど、そうやって彼らは自分のプロジェクトを立ち上げ、旅に向ったのか、と。写真を見ることは、“彼らなりの生”をつくりあげていく技術を学ぶことでもある。

なんていうことを、(もうとっくの昔に終わってしまったけど)ピーター・サザーランドの個展『DIRTLAND』を見に行ったときに感じた。めちゃくちゃな傑作、というわけではなかったが、そこには企みがあり、男子的ノリのプロジェクト感があり、そして冒険そのものだった。この個展のパンフレットから一部抜粋してみる。

「ある日、僕は、ナタンから「秘密の情報」を聞いた。それは、街の外れにある洞窟に住む、モスという男のことだった…(中略)僕は、ナタンに僕の写真のポートフォリオを見せ、「森に篭って生活する人」を被写体に、写真を撮りたいのだと伝えた」

「森に篭って生活する人」(笑)。案の定、そのモスっていうヤツは危ないパラノイア気味の男だった。そしてそれ以外にも鹿の死体に体を擦りつけまくった犬と遭遇したり、不法キャンプをしている人や、ホテルから食料をかっさらっているキャプ・マニアに遭遇しては、彼はマウンテンバイクで軽快に森の中を走りながら、そんな不思議な連中を撮り続けた。

しかしながら、ピーター・サザーランドの作品には不思議といわゆるビョーキな感じは微塵もなく、クールで、爽やかでさえある(いくらドギついオヤジが写っていても)。あくまでもカメラを手にした男子のドキドキ感が伝わってくる。彼の写真にはノリがあるのだ。スケートボーダーのような、軽やかなフィジカルが写真の中にある。そんなものが見ているとヒシヒシと伝わってきて、僕自身の体も自然と軽くなった。イメージの冒険、新鮮さ、不意を撃つようにやってくるもの。ピーター・サザーランドの写真に触れると、そういった秘密について、少しだけ敏感になれるような気がする(コジマ)。