
多和田葉子の描く世界の主人公たちは自分を繰り返し確認することで、同時に「私」の不在を抱きしめているようなイメージがある。
例えば、表題作「海に落とした名前」の記憶喪失の主人公は、自らの痕跡を辿るために、レシートを凝視し、過去の消費行動を分析する。「土木計画」の主人公である女社長は機械のように合理化されたルーティーンの中に自らを放り込み、自分の容姿をコントロールするためにアンチ美容・整形に挑む。それらは自分のフレームを確かめようとする行動に他ならないが、そこに自己愛の充足はない。彼らは「私」の空虚さを強く意識しているからこそ、執拗に自身のフレームをなぞり続けるのだ。
読者にとって、多和田葉子の小説はその空虚さを味わうための嗜好品だ。空虚はギリギリと噛み締めるものではなく、まったりと口に含むもの。その味は、そこそこ甘くメロウで、ひとりで飲むアルコールに似ている。
ところが空虚が醸し出す酔いは、自らの内に留まらず、漏れ出て転移するらしい。小説のなかで主人公は、獣や隣人など、思いもよらぬ形をとった「虚しきもの」たちからの、不意打ちの訪問にあう。具現化した虚しさは、自分を罰しに来た悪魔のようでもあり、親しげな共犯者のようでもある。
それはぞっとするような体験だと想像する。しかしなぜか読みすすめるうちに、読者である私自身もその存在を待っているような気がしてきてしまう。悪魔、あるいは共犯者の出現を待ち焦がれる。 (蜂)
