
ある日、それは突然やってくる。そしてそのことは自分にとっては無関係ではいられないものであり、むしろ致命的になるかもしれないもの。もしかしたら自分もこうなるかもしれない、という不安。決定的に変わってしまうもの。もはや過去の自分には戻れないこと。そういうものが、突然やってくる。
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先月、父親が倒れた。軽い脳梗塞だったが、60も過ぎるといつ何が起きてもおかしくないようなことでもあり、それは自分にとって少し目が覚める体験だった。最も身近な人間に忍び寄るもの。そして、いつかは自分にとっても忍び寄るであろうこと。
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人間の終わりというのは絶対的で、たった一つのものである。死というのは、ただただ圧倒的なもので、それについてどうこう言及することは難しい。ただし、その代わりといっては何だが、生きている時間の中で、僕らの存在というのは多面的であり、多様性を持ち、常に絶対的な最期を回避するような運動を続けている。変化は、必ず変化しないものを常に意識している。たった一つの終着点に向けて、僕らは変わり続ける。
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『わたしいまめまいしたわ』(東京国立近代美術館)は、アイデンティティーの変容や複数の私といったテーマよりも、僕にとっては生を持続させるための焦燥だったり、モチベートを生み出す運動そのものを感じた。複数性による開放感なんかじゃなく、もっと必死で、汗臭く、せかせかとして、変わり続けるもの。コンセプチュアルな理性を突き破るような衝動。言わば今の僕自身というのは、そういう気分なのだろう。
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展示の中で最も自分の気を引いたのは、高峰格の『God Bless America』。「ゴッド・ブレス・アメリカ」を歌う頭像のクレイ・アニメーションによって911以降のアメリカをアイロニカルに表現している、だって?僕はあんまりそういうものは感じなかった。確かにそういう風にはつくられているが、作者の高峰氏はそんなことは結局のところ、どうでもいいのではないだろうか。911をセンセーショナルなモチーフとして利用しただけのことで、結局のところ彼が表現したかったのは、粘土の馬鹿デカい頭のマヌケ面が不気味に動く有様と、その粘土をつくる若くてかわいい女の子の動き、なんだと思う。他のことはもはやどうでもいいに違いない。
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2人のカップルが真っ赤な部屋で目覚め、起き上がり、食事を取り、巨大な粘土の頭像をつくり、夜になると夕食をとり、眠り、セックスさえしてしまう。こんな一日が果てしなくせわしなく記録されている。ゆっくりとだが確実に変わっていくものをハイスピードで回転させると、そこにはマジックが生まれる。そんな早送りされているヴィデオのイメージを眺めていると、眩暈を感じてくる。しかも酷く心地よい眩暈を。
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別に意味なんかない。自分の中にある何かが反応して、動き出す。そんなオートマッテックな本能の再確認。私、今、眩暈したわ(コジマ)。
