
コーエン兄弟の映画『ノーカントリー』を試写会で観た。昔『バートンフィンク』を観たが、もはや完全に何の映画か忘れてしまった。けれどもこの『ノーカントリー』は強烈。とても面白かった。
最近映画では音が重要と言われている。この前のエスクァイアの特集でもそうだったし、蓮実センセイも常に音について語っている。この映画でも「見えるもの」よりも「見えないもの」のほうがとても気になる。この作品は“映画における音に関する文法集”とも言える。様々な技術の発達のお陰で、「見えてしまう」ということについてのリアルさが減退してしまっている状況下で、音のリアルさ、イマジネーション、すなわち「見えないもの」についての可能性を探ることが映画の延命につながる。それが最近の映画の一つの潮流と言ってもいい。
ということは誰もが指摘するだろうから、僕自身が面白いと思った点をいくつか。ハビエル・バルデム演じる殺人鬼役の男についてだ。彼はプロの殺し屋として大金を手に入れた男を追いかけ続けるわけだけど、ある種の“審判者”として描かれている。カミュで言えば『ペスト』のような、圧倒的な不条理とでも言える。当の本人さえ制御不能で、自分の意志を超えたところで動き、選ばれ、決定されていく。ヨーロッパ・アメリカ人は割りとこういうモチーフが好きだが、この映画についてはある種の超人的な摂理の、現代解釈といったものになっている。
でも、何と言うか、作品そのものが少し職人的な感触が強すぎないか…?とか同時に感じる。監督の中にあるもっとパーソナルなセンスというものが出ていてもいいのだが。いや、それは僕の単なる期待し過ぎなことなのかもしれないが。とにかくこの作品ではある種の達観や諦念を暗示するようなセリフが続き、思わせぶりな言葉が繰り返されていく。個人を超越した運命や定めをある種の知恵を持って受け止めるような素振りが、作品を透かして見えてくる。金を持って逃げる元ベトナム帰還兵、殺し屋、そして保安官。これらの男たちは皆どこか達観してしまっている。自分自身がもしかしたら次の1秒先で死ぬかもしれないことを、どこかで平然と受け入れることが出来ている。
その一方で、唯一、生々しく、前向きなセリフを語るのは女たちばかり。だから彼女たちがスクリーンに映ると思わず目が覚めた気分になる。より生々しく、予想外で、何かの感情の塊みたいなものが彼女たちによって突発的に現れる。そこがこの作品の魅力の一つでもある。受け入れることと反発すること。そういった引き裂かれ方も、もしかしたらクリシエ的なものなのかもしれない。でも、ペドロ・コスタも「映画はクリシエを恐れてはいけない」みたいなことも言っていたな。クリシエを恐れず、クリシエに突き進み、それを乗り越えようとすること。そういった逞しい意志というのは、この作品には十分あると思う(コジマ)。
