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      <title>Spore Mash Up !</title>
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         <title>メメント・モリ</title>
         <description><![CDATA[<img alt="41AiWXAJeqL__SS500_.jpg" src="http://www.spor-e.com/review/41AiWXAJeqL__SS500_.jpg" width="500" height="500" />
わたしたちに許された特別な時間の終わり
岡田利規
「イラク空爆のさなか、渋谷のラブホで4泊5日」。大江健三郎賞の受賞作であることを示す黄緑色のオビに、書いてある。

初対面の、わりにどうでもよさげな相手とのラブホ暮らしが異国の旅みたいになるとしたら、そこには死の影が、スパイスのようにふりかけられているはずだ。
旅をしている時は、路地の薄汚れたポスターが、妙に愛おしく感じられたりする。それは、二度とそこに来て同じポスターを見ることがないことを、知っているからだ。
彼らが悪趣味な渋谷のラブホを特別な場所のように思うのは、彼らの関係が「いつまでも系」に属してないことにプラスして、我々の住むこの世界もまた、「いつまでも系」に属してないことに気づいてしまったからだ。

自分を振り返って、2003年は既に仕事をしてはいたけど、まだまだモラトリアム気分でフラフラしていた。この小説に描かれる、ゴムみたいに引き伸ばされた若者時間が、当時の出来事にシンクロする感覚は、同時代人として充分に刺さる。

テロや戦争が、アメリカというハリウッド映画的イメージを揺るがした最初は、7年前の9・11。そのころモラトリアム時代を過ごしていた人間の多くが、今では社会人になっている。
そんな「私たち」はまず、この本の黄緑色のオビを見、「イラク空爆のさなか、渋谷のラブホで4泊5日？　もう、そんなユルイ時間の使い方、絶対無理」と思って、クラッとする。しかし、そんな「私たち」の時間だって、当然だが「いつまでも系」ではあり得ない。

「私たちに許された特別な時間の終わり」。次のそれは、どんなふうに訪れるのだろう？(蜂)
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         <pubDate>Mon, 30 Jun 2008 07:01:07 +0900</pubDate>
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         <title>デジタルで汚す</title>
         <description><![CDATA[<img src="http://www.exwrite.net/emotionandstyle/skins/vicuna/images/shigarieko.jpg">

いつのまにか4月になってしまった。先々月はプレゼントで写真集をもらい、ちょうどそれが木村伊兵衛賞をとってしまった。志賀理江子の『Lilly』だ。この写真は本屋に置かれ始めた時から気になっていたが、まさかいきなり賞をとるとは思わなかった。が、才能としては図抜けている。デジタル写真の可能性にようやくポジティヴな評価を与えることが出来る、と思わせるような鮮烈な才能だ。

もはや時流の新しい・古いといった場当たり的な価値を超え、あらゆる要素を異種配合していくことにしかクリエイティブというものは宿らない、ということを実感させてくれる写真家だと思う。写真的な即興性をもったイメージをセレクトし、そのうえ様々なテクスチャーや光の素材を組み込み、編集し、加工する。という一連の作業に必然性が感じられ、ブレがない。新しい技術を興味本位で取り入れる。という地点から最も遠い場所で写真が創られている。デジタル写真が新しいフェーズの中にあることを実感させる。友人が言っていたが、「デジタルで汚す」という表現が最も近いように思える。

『Lily』は写真家がドイツに留学していた時代の作品を編集した本になっている。同じアパートに住む人々を写真に撮り、その後彼女の手による“不思議な”加工を施している。同じアパートに住むいわゆる普通の人々の指先から金色の光が宿ったり、体の中にブラックホールが生まれたり、宇宙の中をフラフープしたり･･･と言葉にすると全く訳が分からない（笑）。が、その全く見たことがない、どのような形容詞をつければいいのか途方にくれるようなイメージがある。まだ写真には力があるんだ、と実感する。

新しさといのはどこからやってくるのか。あるいは、表現の強さというのは、自分たちのどこに存在するのか。この『Lilly』という作品はそんな問いを新鮮なものにする。クリエイティヴというものに真摯に人々を向き合わせる力がある。メディアや技術が、作り手のソウルや感性やモチベーションや思想と奇跡的なシンクロを成し遂げる。『Lily』はその最良のサンプルと言えるだろう。逆に言えば、我々のほとんどは、まだまだ技術やメディアの力に負けている（コジマ）。]]></description>
         <link>http://www.spor-e.com/review/2008/04/post_62.html</link>
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         <pubDate>Mon, 14 Apr 2008 21:03:42 +0900</pubDate>
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         <title>ギャル曽根以前／ギャル曽根以降</title>
         <description><![CDATA[<img src="http://www.exwrite.net/emotionandstyle/skins/vicuna/images/fukada01.jpg"> <img src="http://www.exwrite.net/emotionandstyle/skins/vicuna/images/fukada02.jpg"> <img src="http://www.exwrite.net/emotionandstyle/skins/vicuna/images/fukada03.jpg">

僕は最近どうしても彼女のことについてばかり考えてしまう。ああ、かわいい。超かわいい。見ていて癒される。と、いつもTVで彼女が映っていると思ってしまう。それは誰かというとギャル曽根のことだ。ギャル曽根はいい。今一番来ている。だってあれだけバカスカ食いもん喰らってもかわいいんだぜ？これは奇跡だ。ギャル曽根は新しい女性タレントのモデルを体現している。彼女の出現でパラダイムシフトが起こった。そう、ギャル曽根以前とギャル曽根以降とで、完全に時代が変わってしまった。

彼女が起こしたイノベーションをここで見てみよう。まず、大食いなのに痩せている。で、若い。ギャルである。そして何よりも彼女がわんさか食べている時にカメラがよった時の表情。わざと顎を少し上に向かせ、目を閉じ、恍惚とした表情をカメラに向ける。これは彼女のテレビ用の独特のフォームと言っていい。モノを食べている時、いかにかわいく見せるか？そういった日々のトレーニングの形跡が見てとれる彼女のフォームは、見ていてこちらも思わず恍惚としてしまう。普通だったらたくさん食べるということは、外見的にも見苦しく、げんなりするものだが、決して急がないで自分のペースを保ちながら飛び切り美味しそうに食べる彼女の表情は、神々しくさえある。中山秀征のあのうそ臭さにまみれた表情とは雲泥の差。いわゆる「食い芸」で、彼女は芸能界の勢力地図を塗り替え、今、燦然と輝いている。あー、まぶし過ぎるぜ。

そんな「たくさん食う魅力的な女」というのは、もしかしたら普遍的な力を持つキャラクターなのかもしれない。かつて村上春樹は『世界の終わり／ハードボイルドワンダーランド』で、やたら食欲旺盛なセクシーな女の子を登場させていた（そしてこのキャラがオールドタイプだったのは、この女の人は若干太っていたのだ！村上春樹はギャル曽根の出現を予見出来なかった！）。ある意味すごく戦略的なキャラクターだ。

そして更に戦略的な実写版のキャラクターが登場した。それはテレ朝の深夜に放送されていた『未来講師めぐる』というドラマだ。主演は深田恭子で、彼女がベーグルとかドーナツとかホットドッグとか食べて、あ～お腹いっぱい、となるととたんに目の前の人物の20年後が見えてしまう。満腹になると彼女の中にある超能力が発動する、という設定。これは明らかにギャル曽根以降な、たくさん食べる普通の体型の女の子が魅力的で、なおかつ超能力者である、というラーメン屋で例えればラーメン単体で馬鹿旨いのに更に超高級食材のトッピングを「全部乗せ」にした感じだ。そういった意味ではこのドラマの脚本を書いた宮藤官九郎はやはり勘がいい。

で、その『未来講師めぐる』は先週終わってしまった（笑）。DVDがこれから出るので、まだ見ていない人はこのドラマの先進性（笑）を見るチャンスがある（コジマ）。

<img src="http://www.exwrite.net/emotionandstyle/skins/vicuna/images/fukada04.jpg"> <img src="http://www.exwrite.net/emotionandstyle/skins/vicuna/images/fukada06.jpg"> <img src="http://www.exwrite.net/emotionandstyle/skins/vicuna/images/fukada05.jpg">]]></description>
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         <pubDate>Sat, 22 Mar 2008 12:06:51 +0900</pubDate>
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         <title>圧倒的な不条理</title>
         <description><![CDATA[<img src="http://www.exwrite.net/emotionandstyle/skins/vicuna/images/nocountry.jpg">

コーエン兄弟の映画『ノーカントリー』を試写会で観た。昔『バートンフィンク』を観たが、もはや完全に何の映画か忘れてしまった。けれどもこの『ノーカントリー』は強烈。とても面白かった。

最近映画では音が重要と言われている。この前のエスクァイアの特集でもそうだったし、蓮実センセイも常に音について語っている。この映画でも「見えるもの」よりも「見えないもの」のほうがとても気になる。この作品は“映画における音に関する文法集”とも言える。様々な技術の発達のお陰で、「見えてしまう」ということについてのリアルさが減退してしまっている状況下で、音のリアルさ、イマジネーション、すなわち「見えないもの」についての可能性を探ることが映画の延命につながる。それが最近の映画の一つの潮流と言ってもいい。

ということは誰もが指摘するだろうから、僕自身が面白いと思った点をいくつか。ハビエル・バルデム演じる殺人鬼役の男についてだ。彼はプロの殺し屋として大金を手に入れた男を追いかけ続けるわけだけど、ある種の“審判者”として描かれている。カミュで言えば『ペスト』のような、圧倒的な不条理とでも言える。当の本人さえ制御不能で、自分の意志を超えたところで動き、選ばれ、決定されていく。ヨーロッパ・アメリカ人は割りとこういうモチーフが好きだが、この映画についてはある種の超人的な摂理の、現代解釈といったものになっている。

でも、何と言うか、作品そのものが少し職人的な感触が強すぎないか…？とか同時に感じる。監督の中にあるもっとパーソナルなセンスというものが出ていてもいいのだが。いや、それは僕の単なる期待し過ぎなことなのかもしれないが。とにかくこの作品ではある種の達観や諦念を暗示するようなセリフが続き、思わせぶりな言葉が繰り返されていく。個人を超越した運命や定めをある種の知恵を持って受け止めるような素振りが、作品を透かして見えてくる。金を持って逃げる元ベトナム帰還兵、殺し屋、そして保安官。これらの男たちは皆どこか達観してしまっている。自分自身がもしかしたら次の1秒先で死ぬかもしれないことを、どこかで平然と受け入れることが出来ている。

その一方で、唯一、生々しく、前向きなセリフを語るのは女たちばかり。だから彼女たちがスクリーンに映ると思わず目が覚めた気分になる。より生々しく、予想外で、何かの感情の塊みたいなものが彼女たちによって突発的に現れる。そこがこの作品の魅力の一つでもある。受け入れることと反発すること。そういった引き裂かれ方も、もしかしたらクリシエ的なものなのかもしれない。でも、ペドロ･コスタも「映画はクリシエを恐れてはいけない」みたいなことも言っていたな。クリシエを恐れず、クリシエに突き進み、それを乗り越えようとすること。そういった逞しい意志というのは、この作品には十分あると思う（コジマ）。]]></description>
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         <pubDate>Sat, 15 Mar 2008 01:45:32 +0900</pubDate>
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         <title>私、今、眩暈したわ</title>
         <description><![CDATA[<img src="http://www.exwrite.net/emotionandstyle/skins/vicuna/images/watashi.jpg">


ある日、それは突然やってくる。そしてそのことは自分にとっては無関係ではいられないものであり、むしろ致命的になるかもしれないもの。もしかしたら自分もこうなるかもしれない、という不安。決定的に変わってしまうもの。もはや過去の自分には戻れないこと。そういうものが、突然やってくる。

*

先月、父親が倒れた。軽い脳梗塞だったが、60も過ぎるといつ何が起きてもおかしくないようなことでもあり、それは自分にとって少し目が覚める体験だった。最も身近な人間に忍び寄るもの。そして、いつかは自分にとっても忍び寄るであろうこと。

*

人間の終わりというのは絶対的で、たった一つのものである。死というのは、ただただ圧倒的なもので、それについてどうこう言及することは難しい。ただし、その代わりといっては何だが、生きている時間の中で、僕らの存在というのは多面的であり、多様性を持ち、常に絶対的な最期を回避するような運動を続けている。変化は、必ず変化しないものを常に意識している。たった一つの終着点に向けて、僕らは変わり続ける。

*

『わたしいまめまいしたわ』（東京国立近代美術館）は、アイデンティティーの変容や複数の私といったテーマよりも、僕にとっては生を持続させるための焦燥だったり、モチベートを生み出す運動そのものを感じた。複数性による開放感なんかじゃなく、もっと必死で、汗臭く、せかせかとして、変わり続けるもの。コンセプチュアルな理性を突き破るような衝動。言わば今の僕自身というのは、そういう気分なのだろう。

*

展示の中で最も自分の気を引いたのは、高峰格の『God Bless America』。「ゴッド・ブレス・アメリカ」を歌う頭像のクレイ･アニメーションによって911以降のアメリカをアイロニカルに表現している、だって？僕はあんまりそういうものは感じなかった。確かにそういう風にはつくられているが、作者の高峰氏はそんなことは結局のところ、どうでもいいのではないだろうか。911をセンセーショナルなモチーフとして利用しただけのことで、結局のところ彼が表現したかったのは、粘土の馬鹿デカい頭のマヌケ面が不気味に動く有様と、その粘土をつくる若くてかわいい女の子の動き、なんだと思う。他のことはもはやどうでもいいに違いない。

*

2人のカップルが真っ赤な部屋で目覚め、起き上がり、食事を取り、巨大な粘土の頭像をつくり、夜になると夕食をとり、眠り、セックスさえしてしまう。こんな一日が果てしなくせわしなく記録されている。ゆっくりとだが確実に変わっていくものをハイスピードで回転させると、そこにはマジックが生まれる。そんな早送りされているヴィデオのイメージを眺めていると、眩暈を感じてくる。しかも酷く心地よい眩暈を。

*

別に意味なんかない。自分の中にある何かが反応して、動き出す。そんなオートマッテックな本能の再確認。私、今、眩暈したわ（コジマ）。
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         <pubDate>Tue, 04 Mar 2008 21:31:21 +0900</pubDate>
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         <title>イメージの辺境に触れる</title>
         <description><![CDATA[<img src="http://www.exwrite.net/emotionandstyle/skins/vicuna/images/ps.jpg">

誰にしろ鞄にカメラを突っ込む時、それなりの目的や理由がプロ・アマ問わずに頭の片隅にはあるものだ。ある特定の光景が目の前に現れたら、時間を止め、半永久的に残したいと思わずにいられないもの。たぶんその気持ちの強さの度合いが、写真を作品たらしめるものなのだろう。そんな写真を撮るという行為は、とても私的で、密やかな冒険じみたプロジェクトでもあり、彼らが生きていくうえで必要なことなのだ。

僕はこのような写真的なプロジェクトは大好きだ（そしてこういった要素は写真のみならず、小説やルポルタージュといった表現の中にもある）。たぶん写真だと他人の気分や感覚がダイレクトに伝わるからだろう。とても生々しく、彼らの企み、冒険、眼差しの先にあるものに触れることが出来る。なるほど、そうやって彼らは自分のプロジェクトを立ち上げ、旅に向ったのか、と。写真を見ることは、“彼らなりの生”をつくりあげていく技術を学ぶことでもある。

なんていうことを、（もうとっくの昔に終わってしまったけど）<a href="http://www.shift.jp.org/ja/archives/2006/05/peter_sutherland.html" Target="_blank">ピーター・サザーランド</a>の個展『DIRTLAND』を見に行ったときに感じた。めちゃくちゃな傑作、というわけではなかったが、そこには企みがあり、男子的ノリのプロジェクト感があり、そして冒険そのものだった。この個展のパンフレットから一部抜粋してみる。

「ある日、僕は、ナタンから「秘密の情報」を聞いた。それは、街の外れにある洞窟に住む、モスという男のことだった…（中略）僕は、ナタンに僕の写真のポートフォリオを見せ、「森に篭って生活する人」を被写体に、写真を撮りたいのだと伝えた」

「森に篭って生活する人」（笑）。案の定、そのモスっていうヤツは危ないパラノイア気味の男だった。そしてそれ以外にも鹿の死体に体を擦りつけまくった犬と遭遇したり、不法キャンプをしている人や、ホテルから食料をかっさらっているキャプ・マニアに遭遇しては、彼はマウンテンバイクで軽快に森の中を走りながら、そんな不思議な連中を撮り続けた。

しかしながら、ピーター・サザーランドの作品には不思議といわゆるビョーキな感じは微塵もなく、クールで、爽やかでさえある（いくらドギついオヤジが写っていても）。あくまでもカメラを手にした男子のドキドキ感が伝わってくる。彼の写真にはノリがあるのだ。スケートボーダーのような、軽やかなフィジカルが写真の中にある。そんなものが見ているとヒシヒシと伝わってきて、僕自身の体も自然と軽くなった。イメージの冒険、新鮮さ、不意を撃つようにやってくるもの。ピーター・サザーランドの写真に触れると、そういった秘密について、少しだけ敏感になれるような気がする（コジマ）。]]></description>
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         <pubDate>Mon, 25 Feb 2008 23:20:46 +0900</pubDate>
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         <title>母とはなにものか</title>
         <description><![CDATA[<img alt="41v90zsp-AL__SS500_.jpg" src="http://www.spor-e.com/review/41v90zsp-AL__SS500_.jpg" width="200" height="200" />
最近の角田光代の小説を読むと、なにを読んでもとても息苦しい。抜けがない。それだけ、彼女の小説には逃げがなく、真実に迫っているのかもしれない。 

短編集『マザコン』も、読んでいて息苦しい小説だった。彼女が母であるというだけで、彼らが子どもであるというだけで…、なぜここまで詮索され、傾倒され、反発されなければならないのか。 

「聖でも俗でもなくて、もともと母ではなかったがたまたま母になってしまった人を書きたかった」 
と、角田光代は言う。 

「聖でも俗でもなくて」。大抵の人はそんなものだ。普通の女に、否応なしに強烈なスポットライトが当てられるのが、母になるということなのだろう。 
ひとたびスポットライトが当たるステージに出れば、賞賛や批判を甘んじて受けなければならないわけで…。その結果、さまざまなストーリーが生まれる。母たちに、それを阻止する権利はない。 

ところで話はずれるけど、子が母のことを語る小説はごまんとあるけれど、母が子のことを綿々と書き綴った小説というのは、あまり見かけない。井戸端会議で我が子のことばかり喋る母親は、いくらでもいるのに。 

なぜなんだろう？　実は母親とは、定説とは裏腹に我が子にそこまで入れこんでいないものなのか、それとも、子どもたちに手の内を明かすまいとする大人の配慮なのか…。 
いずれにしても、賢明なことだ。  （蜂）]]></description>
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         <pubDate>Sun, 17 Feb 2008 21:30:53 +0900</pubDate>
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         <title>「私」の不在あるいは遍在</title>
         <description><![CDATA[<img alt="%E6%B5%B7%E3%81%AB%E8%90%BD%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%9F%E5%90%8D%E5%89%8D.jpg" src="http://www.spor-e.com/review/%E6%B5%B7%E3%81%AB%E8%90%BD%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%9F%E5%90%8D%E5%89%8D.jpg" width="135" height="195" />

多和田葉子の描く世界の主人公たちは自分を繰り返し確認することで、同時に「私」の不在を抱きしめているようなイメージがある。 

例えば、表題作「海に落とした名前」の記憶喪失の主人公は、自らの痕跡を辿るために、レシートを凝視し、過去の消費行動を分析する。「土木計画」の主人公である女社長は機械のように合理化されたルーティーンの中に自らを放り込み、自分の容姿をコントロールするためにアンチ美容・整形に挑む。それらは自分のフレームを確かめようとする行動に他ならないが、そこに自己愛の充足はない。彼らは「私」の空虚さを強く意識しているからこそ、執拗に自身のフレームをなぞり続けるのだ。 

読者にとって、多和田葉子の小説はその空虚さを味わうための嗜好品だ。空虚はギリギリと噛み締めるものではなく、まったりと口に含むもの。その味は、そこそこ甘くメロウで、ひとりで飲むアルコールに似ている。 

ところが空虚が醸し出す酔いは、自らの内に留まらず、漏れ出て転移するらしい。小説のなかで主人公は、獣や隣人など、思いもよらぬ形をとった「虚しきもの」たちからの、不意打ちの訪問にあう。具現化した虚しさは、自分を罰しに来た悪魔のようでもあり、親しげな共犯者のようでもある。 

それはぞっとするような体験だと想像する。しかしなぜか読みすすめるうちに、読者である私自身もその存在を待っているような気がしてきてしまう。悪魔、あるいは共犯者の出現を待ち焦がれる。 (蜂)]]></description>
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         <pubDate>Sun, 10 Feb 2008 09:42:18 +0900</pubDate>
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         <title>美と人生を提供すること</title>
         <description><![CDATA[<img src="http://www.exwrite.net/emotionandstyle/skins/vicuna/images/hermony.jpg">

ハーモニー・コリンの『ミスター・ロンリー』の試写会に当たり、心して試写場へ行き、心して映画を観た。何しろ、8年ぶりの監督作品。正直恐いもの見たさもあった。ましてやプロモーションが「パリでマイケル・ジャクソンとマリリン・モンローが恋に落ちる」という、破天荒すぎる宣伝文句。全くどんな物語なのか予測がつかない。そんなちょっと困惑気味の気持ちで僕はソファに座った。そして予想通りのマイケルとマリリンのモノマネ芸人が登場し、軽い笑いのジャブが入るが、2人がパリを経ち、スコットランドの館へど移動すると、たちまちにこの作品のモードはシリアスなものへと変わる。

かつての『ガンモ』や『ジュリアン』のような散文詩的な感触と、古典的とも言えるような物語に対するアプローチの二つが、この作品では見事に融合されている。これが僕の第一印象だった。いままでのハーモニー・コリン作品のような、イメージの速度でズタズタに意味を切り裂きまくった後の呆けた後味は、微塵も残っていない。この作品の中にあるのはより緻密で、最後まで緊張感は保たれたまま壊れそうで壊れない、明晰な美意識だ。そこがこの作品の素晴らしさだと思う。ハーモニー・コリンは初めて普遍的な古典へと向ったと言えよう。

相変わらず雨のシーンはいいし、青い服を着たシスター達もとにかく幻想的。淡く優しいスカイブルーの中を、自転車に乗ったシスターが舞い、森の木々から光が差し込む、そしてスカートがめくれるマリリン・モンローの恍惚とした表情。間違いなくポエトリーな瞬間に僕らは何度も触れることが出来る。しかし、これらの美しいイメージの数々はかつての作品の中での「置かれ方」が明らかに違っている。

幼児体質な、前衛性やサンプリング、オマージュ、ドグマといった手法を乗り越え、どのような感情のフォルムを描き、デザインするのか、という意識に彼は覚醒している。ポエトリーなイメージをどのようにして掴むのか、という類まれなるセンスはそのままに、作品全体のインパクトの強さは増している。これは「後退」ではない。立派な「前進」だ。彼はちゃんと虚偽と真実に切り裂かれて、抑圧と開放を見つめている。さようなら、90年代。ハーモニー・コリンは見事に思春期を卒業し、また違う人生のフェーズへと歩み始めた（小島）。]]></description>
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         <pubDate>Fri, 01 Feb 2008 13:44:54 +0900</pubDate>
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         <title>星のチカラ</title>
         <description><![CDATA[<img src="http://www.exwrite.net/emotionandstyle/skins/vicuna/images/kanehara.jpg">

「例えばさ、ずっと一つの星を見上げていると、自分がその星に落ちていきそうな気がしてこない？」

金原ひとみ著作『星へ落ちる』を読だ。冒頭はこんなセリフから始まる。ずっと一つの星を見つめていると、どんどんその星の発する光に魅入ってしまい、いつの間にかその星の引力によって引きよせられている。もうここまで書けばわかると思うが、タイトル中の「星」というのは「ヒト」にあたる。だから星へ落ちるというのは、彼／彼女に落ちる（あるいは堕ちる）、ということだ。

『星へ落ちる』という作品は、人の魅力（引力）についての物語になる。どのようにして彼/彼女に惹きつけられ、そして自分自身を見失うのか。そのプロセスが相変わらずの金原節によって描かれている。例えば、一人一人は孤独な惑星で、だだっ広い宇宙を彷徨い続けているみたいに。アパートやマンションの部屋で、1人携帯を握り締め、相手からのメールや着信をひたすら待ち続ける。自分が発信したSOSの電波は相手にちゃんと伝わったのだろうか。他の惑星に届いているのだろうか。少しでも近づきたい、という衝動に駆られて、気が付いたら相手の引力から逃れられなくなっている。遂には、自身の重力を自分でも支えきれなくなる。なんていうプロセス。そしてこの物語ではそれが彼にも、彼女にも、無差別に起こり、入れ代わり立ち代り自らの重力によって自壊する。

この作品の中で個人的に一番面白かったのは、登場人物の女性作家（またしても・笑）が、昔の男からしつこくかかってくる電話の会話をその場でタイプし続けるシーンだ。彼女は男と通話中の携帯電話を肩と首で挟みながら、パソコンに向ってカタカタとキーパンチを始める。そして限界すれすれまでに追い込まれた男の焦燥感や叫びをクールにタイプしていく（こんなことされたら嫌だ、自分は・笑）。自分の中に入ってきた言葉を瞬時に切り取ってはPCの中に叩き込むような、オートマティックで残酷な言葉に対する眼差し。これは金原ひとみの一貫したスタイルだと言っていい。不安、焦り、しんどさ、一瞬不意に訪れる安らぎ、その後の絶望、そういった言葉が体の奥の奥から搾り出されながらも、一つ一つの言葉の手触り間は冷たく、むしろ醒めている。緊張や絶望がヒートアップすればするほど醒めていく。感情のレベルがアップダウンを繰り返しながらも、書き付けられる言葉はあくまでもクールでどこか突き放した感触がある、というのがこの作家の魅力なんだと思う。

作品の最後のほうで、自分を振った女をみじめに追いかけ続ける男が、解放される。「泣きながら笑って思う。俺は解放されたんだ。きっとずっと、俺は彼女と知り合ってからずっと、彼女の望む俺であろうとしてきたような気がする。彼女が出て行ってからも、彼女がこうして欲しいんじゃないかと思うことを先回りしてやってきたような気がする…彼女に遠隔操作されているみたいに、彼女が望むであろうことを実践してきた。でも俺は解放された」と彼は感じる。星の、彼女の、引力からやっと解放され、自分自身を取り戻す。恋愛で自分自身らしくなる？ここではそんなことは一切ない。もっと気違いじみていて、もっとも自分自身から遠く、他者に近すぎている状態。恋愛が終わってやっと自分らしくなる。そしてまた広大な宇宙の中を浮遊する孤独な惑星となる。まったく、やっかいなものだ（小島）。]]></description>
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         <pubDate>Thu, 24 Jan 2008 13:46:54 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>ラディカルさについて</title>
         <description><![CDATA[<img src="http://www.exwrite.net/emotionandstyle/skins/vicuna/images/oohashi.jpg">

無垢に、無防備に微笑みかける女。どうしてこんな感じの表情が出来るんだろう、というような笑みの具合。そんな表情が微妙に角度を変えながら、反復されていく。嬉しい？恥ずかしい？誘っている？…とにかく惹きこまれてしまう。それからカメラを避けるように視線を避け、あるいはハンドバッグで自分の顔を隠す、女たち。赤く照らされた部屋の中で、一様に派手目のドレスを着こなし、女たちは表情を強張らせている。そして海。ずっと向こう側へと続く砂浜、波しぶき、雲ひとつない空、全てが太陽に照らされて、銀色に、まぶしく、輝いている。

東京都写真美術館で「日本の新進作家 VOL.6: STILL/ALIVE スティル/アライブ」を見る。もちろん大橋仁目当てだ。大橋さんの作品は一室の4つの壁に展示され、バンコク、リオデジャネイロ、ハワイといった海外で撮影されていた作品が並べられていた。どの作品も鮮烈な光を帯びていて、今、この瞬間の中で存在しているものを見事に切り取っている。大橋さんの作品は以前の個展『ラッキーか？』も行ったし、写真集ももちろん持っていたりするのだが、ラディカルさ、特に根源的なという意味でのラディカルさをいつも作品から感じている。

ラディカルさというのはどこからやってくるのだろうか。かつてスーザン・ソンタグはこう語っている。

「作品の表面が極めて統一的で明晰であり、作品の運動がおそろしく迅速であり、作品の訴えかけが実に直積的なので、作品はついに…まさにそれ自身となる」（『反解釈』）。

このような、解釈の余地を残さないこと、有無を言わさないようなイメージを僕らに突きつけることこそが根源的な力であり、そういったラディカルさが大橋仁の作品の中には間違いなく、ある。まさしく、光そのもの、あるいは、生の瞬間そのものが極めて高い濃度を持ちながら僕らの目の前に現れる。

そしてラディカルさというのは、スーザン・ソンタグの『ラディカルな意志のスタイル』という著作タイトルの通り、この「意志」と「スタイル」が見事に一致したときにこそ生まれるものなんじゃないだろうか。作家の意志や衝動から生まれるメッセージは、必ずしもそのメッセージに適したフォルムや構造をまとっているとは限らない。今の時代はもっと巧妙な仕掛を使ったコミュニケーションが求められているような気がする。一筋縄でいかない複雑な世界をリアルに表現するためには、また作品も複雑になりがちではある。だからこそ、「意志」と「スタイル」が一致しているような作品を発表できるような才能は稀有であると言っていい。大橋さんの表現というのは、そういった数少ない類の力を持つものだと思う。

蛇足だが、大橋さんのブログは抜群に面白い。言葉も扱える写真家ということで、大橋さんは荒木さんや森山さんのような非常に的確に自分たちの写真について語る写真家の、正当な系譜に連なる才人なんだと思う。（小島）
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         <link>http://www.spor-e.com/review/2008/01/post_53.html</link>
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         <pubDate>Fri, 18 Jan 2008 16:50:10 +0900</pubDate>
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         <title>ジョージ・ベストと大竹伸朗</title>
         <description><![CDATA[<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480420495/spore-22/ref=nosim/" name="amazletlink" target="_blank"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/21D5EDPP3PL.jpg" alt="既にそこにあるもの (ちくま文庫)" style="border: none;" class="img_L"/></a>
先月、慶応大学にて「『描くことと書くこと』大竹伸朗×いしいしんじ」というトークショウに出かけた。トークショウは普通の大学の教室でやったので、本当に久しぶりに学生な気分になった。と言っても、それはどちらかと言うと苦々しいものだが…何というか、あのだだっ広い教室で前方の教壇の一点を見つめ続けるというのは、非常にしんどい。教室に座っていると、反射神経的に気だるい気分になり、睡魔が襲ってくる（苦笑）。

そんな非常に鬱屈した状態だったのだが（笑）、登場した大竹さんはとてもリラックスしていて、とても楽しいトークが楽しめた。大竹さんのデフォルトの状態で発せられるユーモア感みたいなものがあって、そこが作品と直結しているような感じすらあった。トークのテーマである『描くことと書くこと』とは全く関係ない内容で、いい意味でダラダラとしたモードで対話が生まれていく。待望されていた『全景』展のカタログが完成したことも、更なるリラックスモードを生んでいたかもしれない。

大竹伸朗というアーティストは、教える・教わるという関係から逸脱した、技術的に伝えられるものというのに依存しない、むしろそういったことを拒絶するような、そういう作品をつくるアーティストだと僕は思う。既にある共通のルールを前提としたコミュニケーションの外側に存在すること。あるいは、まだお互いまっさらの状態で向き合って何かの意志を交わす、あるいは発したり受けたりする、というような対話・・・そういった関係を僕らに求めてくる。なので大竹さんの作品にはいつもスリリングな魅力がある。

『全景』展では「言葉を必要としない、圧倒的な何か」を目指した、と大竹さんは語っていたが、この「言葉を必要としない、圧倒的な何か」というのは果たしてどんなことなんだろうか、と考えてみる。小説というか、文学の問題で考えてみると、二元論的な物語のフレームに対する批判というのが、このジャンルでは必ずある。しかしながら物語を解体し、意味の外側に向う強度の追及というのは、洗練を獲得するのと同時に、退屈さにつながってしまうというジレンマがある。要は、わかりやすい感情の推移をデザインする物語のフォーマットというのは、形骸化され、リアルさを剥奪されつつあるが、物語のフォーマットに依存しない作品の中で展開される反復や引用というのは、正直面白くないし、退屈になりがちである。これはアートの世界にも通じる問題だと思う。

もう一度物語の再生を目指すのか。それとも強度の追求を目指すのか。そういった判断が問われる中、大竹さんの作品は強度追求へ向っている。というか、初めから感情の推移なんていう問題には興味がなく、ただマンチェスター・ユナイテッドのジョージ・ベスト（大竹さんが彼のファンであるとエッセイ集『既にそこにあるもの』で語っている）の有無を言わさないドリブル突破のようなものだけを目指す（しかもそれは誰ともパス交換せず、チームプレイとかも無しの、孤独なドリブルだ）。そしてなおかつ面白い、というのはやはり奇跡なんだと思う。

その面白さ、魅力というのは、成熟というのを一切拒否し、ちょっと高尚そうなもの、意味ありげなもの、偉そうなものを丁寧に世界から削除しまくり、そこから残ったありとあらゆる無駄でゴミでなおかつちょっとだけいとおしく、ユーモアがあるものをかき集めてきては作品の中にぶち込む、というところからやってくる。とにかく有効じゃないものを徹底して量産すると、そこには言葉には出来ない強度が現れてくる…しかしながらこの作業を貫徹するには、よほどの強い意志と勇気と、ま、いっか的ないい加減なノリが奇跡的に同居しないと完成することはないんじゃないか、と思える（笑）。

大竹さんのそんな天才性から生み出された作品というのは、やはり根本的には我々の間では共有できない、非常に孤独な意志の結晶体であるような気がする。テクスチャーの中にかろうじて見えるヒーローやピンナップ・ガールに僕らはぷっと吹き出してしまうが、作品自体に対してはやはり圧倒されるほかないのだ。（小島）]]></description>
         <link>http://www.spor-e.com/review/2008/01/post_52.html</link>
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         <pubDate>Fri, 04 Jan 2008 16:48:21 +0900</pubDate>
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         <title>ホラーとエクスタシー</title>
         <description><![CDATA[<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4102010181/spore-22/ref=nosim/" name="amazletlink" target="_blank"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/21C0Z1BPB2L.jpg" alt="悪霊 (下巻) (新潮文庫)" style="border: none;" class="img_L"/></a>
『カラマーゾフの兄弟』がバカ売れするようなドストエフスキー・ブームみたいなので自分もこの孤高の大作家について何か書いてみる。個人的に最も読んでいて面白い部分、あるいは惹かれてしまう部分は、「恐怖」、「ホラー」といった、感情の底の底、どん底部分の描写なんじゃないかな、と思う。例の執拗な饒舌が展開された後、一瞬の希望が差し込んだと思ったら、自分自身の存在が崩壊する、あるいはもう崩壊するしかない状況に追い込まれる。といった感情のハイ・アンド・ロウさ。愛されるか憎まれるか、奪うか奪われるか、そして生きるか死ぬか。そういったギリギリの追い込まれた状況の中で登場人物たちは喋りまくり、ピーク時には発狂する（笑）という、思いっきりカオスな過剰さに僕はどうしても魅了されてしまう。例えば、こんな描写がある。

「窓と向かい合った壁の、ドアの右手に、戸棚が一つ立っていた。この戸棚の右側の、壁と戸棚でできた窪みに、キリーロフが立っていた。それも実に奇妙な立ち方だった。身動きひとつせず、体をぴんと伸ばし、両手をズボンの縫目に当てがい、頭を起こして、後頭部を壁にぴったりと押しつけ、その窪みに収まっている様子は、そのまま全身をかき消して隠れてしまいたいとでも思っているようだった。あらゆる兆候から見て、彼はかくれているのにちがいなかったが、どうもそれが本気にできなかった。ピョートルはその隅からはいくぶん斜めの位置にいたので、彼に見えたのは、体のはみ出ている部分だけであった。彼にはまだ、左のほうへ体を動かして、キリーロフの全身を目にし、謎を解こうという決心がつかなかった。彼の心臓ははげしく鼓動しはじめた…と、突然、彼は凶暴な怒りの発作にかられた。彼は身をひるがえすと、大声をあげ、足を踏み鳴らしながら、猛然とその恐ろしい場所へ突き進んだ。」（『悪霊』）

これは『悪霊』におけるクレイジーな自殺思想にとりつかれたキリーロフに、ピョートルが本当に自殺するのかどうか、プレッシャーをかけるシーンなんだけど、もうこれはある種のホラー小説と言ってもいいぐらいだ（かなり好きなシーンだけど・笑。滑稽すれすれで）。恐怖の中にどっぷりと浸かり、どっぷり浸かりながらもうっとりしてしまうような、そういう瞬間。発狂と恍惚が繰り返され、自然と展開はジェット・コースター的になる。感情のピーク・ポイントの上下幅があまりにも大きく、しかもドストエフスキー本人が物語の中に麻痺してしまっている。そんな感じがしてならない。作家の体質が作品を侵食し、物語を歪ませている。有名な話だが、ドストエフスキーは若い頃にシベリアに服役することになり、その影響で持病の癲癇が悪化されたと言われている。ドストエフスキー作品における病との関係について、作家の加賀乙彦氏はこう指摘している。

「癇癪という病気を「父殺し」の無意識の自罰行為と考えるのは、フロイトの常道です。しかし、今、癇癪の研究はうんと進みまして、実際の癇癪は、そうした心理的なもので起こるのではなく、脳のある種の障害から起こることがわかっている…肉体と精神すべてを飲み込むような、何とも抵抗できないすさまじい発作を、彼は何度も起こしている。だから、フロイトのいうエディプス・コンプレックス的な考え方では、彼の文学は解釈できないと思います」（『21世紀ドストエフスキーがやってくる』 集英社 亀山郁夫氏との対談から）

しかしながらこのような強烈な恐怖や恍惚といった感情のうねりは、やはり中篇よりも長編に顕著に起こると思う。『カラマーゾフの兄弟』はもちろん、『悪霊』や『白痴』のような長編においてこそ、ドストエフスキー的なバッド・トリップが楽しめるようになる。作品が長くなればなるほど、構造の力は弱まり、一番初めに考えていたシナリオは破綻し、登場人物たちが何やらひとりでに喋り始める。そうやって一気にテンションが高まっていくと、あの、癇癪の副作用と言われる発作的な怒りと恍惚とした描写がピークとしてやってくる。そんな勢いで欲望と欲望がぶつかり合い、不協和音を立て、混沌とした状況を生み出しながらも、何かある一つの終末に向ってかろうじて物語が展開していく。これはある種の奇跡だと言っていい。ドストエフスキーの長編作品においてはカオスが構造化され、構造がカオス化する。絶妙なバランスを保ちながら、カオスがデザインされていく。僕はその部分においてとても感動する。

時々、僕はこう思う。ドストエフスキー作品の中にあるホラーは、もしかしたら多くの読者が待ち望んでいるものなのかもしれない、と。自分自身も人生のどこかのタイミングで起こるかもしれない、あるいは起こってしまった、避けようもなく深い恐怖と恍惚。そういったものに無意識的に引き寄せられ、体験するために、僕らは何度もドストエフスキーを読むのかもしれない。]]></description>
         <link>http://www.spor-e.com/review/2007/12/post_51.html</link>
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         <pubDate>Fri, 21 Dec 2007 16:46:02 +0900</pubDate>
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         <title>日々の料理と思考</title>
         <description><![CDATA[<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4579209974/spore-22/ref=nosim/" name="amazletlink" target="_blank"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/2100IHgzRYL.jpg" alt="15分でフランス料理" style="border: none;" class="img_L"/></a>
今年は今までの人生の中で一番料理をした年だった。「今の世の中、詩があるのは料理くらいだ。料理をつくるこころには詩がある」。これは花森安治の言葉なんだけど、全くその通りだと思う。それに、料理をつくることは癒される。そこには純粋な善しか存在しなく、誰かにこれからつくるものを食べてもらう・あるいは自分自身で食べる。という以上でも以下でもなく、他人を裏切ったり苦い想いをすることもない。そういった意味では、家で料理をつくるということは詩的な癒しなんだと思う。

とは言え、やはり料理をつくることに毎日それほど時間をかけられるという訳でもない。例えば2～３時間たっぷりと手間隙をかけ、思慮深く、それでいて繊細な皿の数々をテーブルに並べるべくキッチンで格闘する、ということはなかなか難しい。プロフェッショナルであるなら別だが、今までも、これからも、僕は永遠のアマチュア・コックであり続けるだろう。そんなアマチュア・コックに必要なものは優れたレシピ集である。インターネットで検索すればつくりたい料理の膨大なレシピが検索できるが、やはり僕はレシピ本を眺めながら料理をつくるのが一番いい。完成された綺麗な料理の写真を見ると、料理に対するイメージが湧くし、本だからキッチンまで持ってこれてチラチラと見ることが出来る。

僕の今年最大のヒットは『15分でフランス料理』（宮内好江著：文化出版局）だ。非常に高度なテクニックが必要とされ、なおかつ調理の時間がかかるとされるフランス料理を、15分でシンプルにつくることが出来るレシピ集になっている。この本の冒頭において宮内好江さんも書かれているが、フランス人にも家庭があり、毎日をめちゃくちゃ凝りまくって食事をつくっている訳ではない。ここには、彼らフランス人達が毎日の普段の食事としてつくられるメニューのレシピがある。例えば、長ねぎのカマンベールソース、ホワイトアスパラガスとポテトのサラダ、鴨肉のマーマレードソース…どれも15分で出来上がり、しかもとびきりに旨い、立派なフランス料理だ。

フランス料理は、いや、日本料理もイタリア料理も中華料理もそうだと思うけど、料理の基本的な工夫というのは、素材のコンビネーションにある。実際野菜を切り、肉を焼き、ソースをつくると、それがよりリアルに感じられる。1+1を2にも3にもする工夫。あるいは、ちょっと合いそうもない素材のコンビネーションによる、味のインパクト。そういったコンビネーションから生まれる新しい発見や面白さというのは、全てのクリエイティブな営みの基本だろう。料理的な思考によっていくつかの要素をコンビネーションすることにより、目の前の視界はいつもよりクリアになるんじゃないかな。世の男達に告ぐ。面白いものをつくりたいと思うなら、レシピ本を買い、料理をするべきだ。忙しいとか言っちゃいけない。この本を買えば、15分で料理のコンビネーションのプロセスを体験することが出来、なおかつ旨い料理を食べることが出来るのだ！（Kojima）
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         <link>http://www.spor-e.com/review/2007/12/post_50.html</link>
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         <pubDate>Tue, 11 Dec 2007 16:43:46 +0900</pubDate>
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         <title>演技の克服</title>
         <description><![CDATA[<div class="amazlet-box" style="margin-bottom:0px;"><div class="amazlet-image" style="float:left;"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000065EKC/spore-22/ref=nosim/" name="amazletlink" target="_blank"><img src="http://images-jp.amazon.com/images/G/09/icons/dvd/comingsoon_dvd.gif" alt="オープニング・ナイト" style="border: none;" alt="no image" /></a></div><div class="amazlet-info" style="float:left;margin-left:15px;line-height:120%"><div class="amazlet-name" style="margin-bottom:10px;line-height:120%"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000065EKC/spore-22/ref=nosim/" name="amazletlink" target="_blank">オープニング・ナイト</a><div class="amazlet-powered-date" style="font-size:7pt;margin-top:5px;font-family:verdana;line-height:120%">posted with <a href="http://www.amazlet.com/browse/ASIN/B000065EKC/spore-22" title="オープニング・ナイト" target="_blank">amazlet</a> on 07.10.19</div></div><div class="amazlet-detail">東北新社 (2002/05/24)<br />売り上げランキング: 15274<br /></div><div class="amazlet-review" style="margin-top:10px; margin-bottom:10px"><div class="amazlet-review-average" style="margin-bottom:5px">おすすめ度の平均: <img src="http://images-jp.amazon.com/images/G/09/x-locale/common/customer-reviews/stars-5-0.gif" alt="5.0" /></div><img src="http://images-jp.amazon.com/images/G/09/x-locale/common/customer-reviews/stars-5-0.gif" alt="5" /> ４０００円！<br /></div><div class="amazlet-link" style="margin-top: 5px"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000065EKC/spore-22/ref=nosim/" name="amazletlink" target="_blank">Amazon.co.jp で詳細を見る</a></div></div><div class="amazlet-footer" style="clear: left" class="img_L"></div></div>

中目黒のプライベートな映画鑑賞会にて、ジョン・カサヴェテスの『オープニング・ナイト』を観る。こりゃあ素晴らしい。物語の冒頭で、主人公の女優は自分の若い女性ファンが交通事故で死ぬところを目撃する。彼女は若さの象徴であり、演技を超えた、ただ無償で愛する存在としての象徴でもある。女優としてのキャリアの行き詰まり、あるいは自分自身の人生の行き詰まった状態が、二重の喪失として表現される、という王道な文学的パターンで作品はスタート。

作品の中ではいくつもの世界のレイヤーが重ねられていく。舞台における演技、演技のリハーサル、舞台裏、舞台を見ている観客、舞台を離れた日常、日常における幻覚…そういった感触の違う「現実」が交差し、主人公は翻弄されていく。が、そういった現実に打ちのめされた後に彼女は最後の力を振り絞り、再び舞台の上に登ることを選ぶ。そして自らの即興性のある演技によって、彼女は複数の平行しながら存在するレイヤーを統合することを試みる。構築された演技から即興へ。即興から根源的なエモーショナルなものへ。彼女は「情熱そのもの」としか言い様のないものに到達する。

舞台の裏側から役者達がライトに照らされて映し出された瞬間、観ていて目頭が熱くなった（小島）。]]></description>
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         <pubDate>Fri, 19 Oct 2007 13:42:41 +0900</pubDate>
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